季節のたより
白梅咲く
ここ数日、とても暖かい日が続きました。何でも4〜5月の気温だとか。
このまま春になってくれればと思うのは、少し虫のいい話かも知れません。
今日、午前中に校庭を回ってみました。体育でランニングをしていた子どもたちは半袖で、額にうっすら汗を浮かべていました。
校内には1箇所だけ梅の木が植えられています。プールの東側で、白い花が咲いていました。
先週の水曜日に見たときは堅いつぼみのままでしたから、あっという間に花が咲いたようです。春が近づいたことを敏感に感じ取っていることに驚きです。ほんとうに自然には感服するばかりです。
加賀千代女(かがのちよじょ)の句に「梅咲くや 何が降っても 春ははる」というのがありますが、これから雪が降ろうと氷雨が降ろうが春がやって来たことに変わりはありません。
梅の句の有名なものに「梅一輪 一輪ほどの暖かさ」というものがあります。かの松尾芭蕉の高弟、服部嵐雪(はっとりらんせつ)が詠んだ句です。
これも梅が詠まれているので、春の句だと思っていましたが、何と違うそうです。
実は、この句には前書きがあって、「この句で詠んだ梅は寒梅です」と説明してあるそうです。
寒梅は冬の季語で、俳句だけ読むと春だと思うのですが、俳句だけ読んでも駄目なんだと思わせられました。
せっかくですので、私の好きな梅の句をいくつかご紹介したいと思います。
「梅咲くや せうじに猫の 影法師」(小林一茶)
「せうじ」とは障子のこと。廊下でひなたぼっこしている猫が目に浮かびます。
「梅が香に 火のなき火鉢 並びけり」(久保田万太郎)
春の日の暖かな風景が伝わります。
この他に小さな花たちもたくさん咲いていました。冬の眠りから覚めたテントウムシも花の茎や葉の上を活発に動き回っていました。
桜の枝も少しずつ芽が膨らんできています。待ち遠しい春も、そこまで来ているようです。
春告鳥
随分と春らしく感じる日が増えてきました。
この時期、三寒四温といわれるように、少しずつ暖かくなり、ときに寒さがぶり返す…を繰り返しながら春になっていくようです。
待望の春ですが、自然界には「春が来たよ!」と私たちに教えてくれる鳥がいます。
それは「春告鳥」と呼ばれるウグイスです。早春に他の鳥に先駆けて春の訪れを知らせることから,この名前がついたといわれます。
実は先日、学校プールそばの竹林から声が聞こえてきました。
ウグイスという鳥は、冬の間は竹藪の中に身を潜めて、チャッチャッと短く小さな声で鳴きます。これを「笹鳴き」といいます。
ちなみに、先日耳にしたのは、この笹鳴きでした。
ウグイスは、声はするけれど,実際に姿を見つけるのは難しい鳥です。それは、実に地味な色をしていて枯れた竹の色に同化しているようでもあるからです。
しかし、いざ春を感じると、オスは樹木の枝先に姿を現し、おなじみの声でさえずります。自分のテリトリーを主張し、メスを誘う歌は,1日に数千回に及ぶこともあると聞きました。
ウグイスの声のトレーニングには、付子という方法があるそうです。それは,親鳥のかごから数メートルのところに,ヒナを置き、鳴き声を覚えさせるというものです。実はウグイスの鳴き声は、自分で上手になるものではないのです。
先生になるのは、もちろん先輩に当たるウグイスですが、なかには人を真似ることもあります。
私の知っている方は、毎日ウグイスのかごのそばで口笛を吹いて聞かせていました。なぜ、そんなことをするのか尋ねると「鳴き方を覚えさせるんだよ」と教えてくれました。
実際、その方の教え子のウグイスは、それは見事な鳴き方でした。
今思えば、その方の口笛の方がウグイスに勝っていたのかもしれません。(今から50年近く前のお話です。現在は、法律により捕獲・飼育は禁止されています。)
余談ながら、ウグイス色という色がありますが、実際にはウグイスの色よりもメジロの色に近いようです。ある話では、昔の人がウグイスよりも目立つメジロをウグイスだと勘違いしたのではないかという説があります。いわゆる「とりちがえ」だったのかも知れません。
先日、我が家の近所を散歩していると、フキノトウを見かけました。これも春の象徴です。
しっかりと春が近づいてきているようです。
如月
2月になりました。一年中で最も寒い時期で、着物を重ねて寒さをしのぐという意味「更衣」から「如月(きさらぎ)」になったと言われています。
ちなみに、1月を睦月と呼ぶのは新年を共に祝い仲睦まじく過ごすということから「睦月」となったそうですから、昔の人はセンスのある名前を付けていたのだと感心するばかりです。
2月2日は節分、2月3日は立春です。暦の関係で、例年より1日ずれています。
さて、近年この時期になるとテレビのCMやスーパーのチラシなどに,豪華な巻き寿司が見かけられるようになりました。恵方巻と呼ばれるものです。
この恵方巻に関しては,次のようなことが言われています。
〇どうやら関西から広がったものである。
〇決まった方角に向かって目を閉じて食べる。
〇一説では食べているときに、しゃべってはいけない。
〇一説によると,一気に食べなくてはならない。
どうも怪しげな情報ですが、私の身のまわりでも通説になっていますので、そうなのでしょう。
さて、恵方巻の「恵方」とは何かということですが、調べてみると次のようなことが記されています。
歳徳神のいる方位をいい、吉方、明の方ともいう。その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされる。
*歳徳神とは「歳神」「正月様」と呼ばれるその年の福徳を司る神のことをいう。
この吉にあたる方角ですが,実は次のように定められています。
西暦年の一の位の数 | 恵方の方角 |
4,9 | 東北東やや東 |
0,5 | 西南西やや西 |
1,3,6,8 | 南南東やや南 |
2,7 | 北北西やや北 |
ですから今年は「南南東やや東」が恵方となるわけです。もっといろいろな方角があるものと思っていましたから、たった4つの方角だったのには驚きました。
恵方については,何となく分かりました。
では、なぜ巻き寿司なのか。どうやら起源は江戸時代の終わりごろにあるようです。
当時の大坂(現在の大阪)の船場で商売繁盛の祈願を込めての風習だったといいます。その後、すっかり廃れてしまいましたが昭和40年代後半ごろから復活し、関西地方で一般的な風習になったようです。
その後、全国のスーパーマーケットなどで大きく宣伝されたことで、急速に広まったのです。
恵方巻にも大切なきまりがあって、かんぴょう、きゅうり、伊達巻、うなぎなどの7種類の具材を入れることになっています。
7種類というのは,お気づきのように「七福神」にちなんでいるようです。
また、丸かぶり(切らずに食べる)のには、縁を切らないという意味があるそうです。
目を閉じて食べるのには、しっかり「今年もいいことがありますように」と祈るからで、食べている間は話ができないから,当然黙って食べることになるわけです。
これらのことから、先に述べた4つの通説は、おおむね当たっていたということになります。しかし、いろいろな意味や願いが込められていることが分かり「深い!」と感心しました。
ところで、これまで恵方や恵方巻のことを書いてきましたが、何か「?」なことはありませんでしたか。
なぜ、恵方巻を2月に食べるのでしょうか。
そもそも1年間の幸せを願うのなら1月に行うべき行事だと思われませんか。
実は「2月の恵方巻」は、2つの暦によって生まれた食い違いによるものなのです。
日本は江戸時代までは旧暦(太陰暦)を使っていました。しかし、明治6年(1873年)にユリウス歴(太陽暦)を導入します。その暦を使い始めた日を1月1日としたわけです。これを新暦といいます。
そうすると、新年を迎える行事も「引っ越し」をしなくてはなりません。うまく引っ越しできたのが「元日を迎える諸行事」でした。
その例が
・しめ縄を飾る→歳神様を迎える
・門松を立てる→同上
・鏡餅を飾る→歳神様に食べていただく
・どんどやをする→歳神様をお送りする
といったものです。
ところが「恵方巻」「節分の豆まき」(「鬼は外、福は内」も年末の行事だと納得できませんか。)は,うまく引っ越しできなかったため旧暦のころに実施し続けることになったわけです。
日本には古くからのさまざまな伝統や文化があり、それらの意味を考えると我々の祖先の積み上げてきた「大いなる遺産」に他ならないと思います。
美味しいものには目がない!
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は元日から曇り空で、なかなか初日の出を見ることができませんでした。ようやく3日になって拝むことができました。
さて、新年を迎える準備といえば「門松」づくりです。今年度も、PTA執行部の皆様のご尽力により、素晴らしい門松を玄関を飾っていただきました。
年が明けて出勤してみると、何かが変です。
どうも赤みが足りません。南天も飾ってあったはずなんです。
よく見ると、赤い実だけがないのです。
一粒も残っていないのです。
「誰がこんないたずらをしたんだろう?」という疑惑がふつふつと湧いてきました。
周りを見回すと、すぐに犯人が分かりました。ふんが落ちているではありませんか。
犯人は鳥でした。詳しくはヒヨドリというハトより少し小型の鳥です。
このヒヨドリ、美味しいものに目がないグルメです。
木の実なども熟すのを待って、食べ時になると一気に群れでやってきて食べつくしていきます。
きっと、そのターゲットに南天の実もなったに違いありません。
ヒヨドリは、花の蜜を好んで吸いに来ます。先日ご紹介したサザンカにも来て長いくちばしで蜜をすいます。
しかし、冬場になるとエサが十分に手に入らなくなります。そこで、木の実をついばむわけです。観察していると、上手にくちばしでむしり取り、丸飲みします。種もそのままですから、ふんを落とすと、自然に種まきをしてくれることになるわけです。
ヒヨドリは、野菜や果物もよく食べます。ミカンなどに大きな被害を与えることで、害獣扱いを受けます。
本校でも、たくさんの害を与えています。右の写真は、たんぽぽ・ひまわり学級の白菜の様子です。
やわらかい葉の部分を最初に食べ始め、おいしいとわかると群れを作って襲来し、壊滅状態になります。
このほかにも、次のような光景が広がっています。
作物ができるのを楽しみにしている子どもたちには申し訳ないですが、根元のダイコンや芯の部分のブロッコリーは大きくなっていることで許してもらわなければ…と思います。
春を待って、じっと耐えて生きている命です。あたたかい目で見ていただきたいと思います。
さて、冬休みも終わりです。子どもたちの元気な声であふれることを楽しみにしています。
今日は冬至
年末にテレビを見ていますと、毎年必ず放送されるものがあります。
そのプログラムは、歴史的にも古く、戦後まもなくから行われているといいますので、80年近くの歴史があるようです。
えっ、紅白歌合戦のことだろう?
いえいえ、違います。
余談ですが、紅白歌合戦は1951年に始まりました。最初は、年末ではなく1月3日にラジオで放送されました。
第1回から第3回まではラジオで、第4回から年末のテレビ放送になり、今日に至ってます。
おやおや、例により話がそれてしまいました。
年末の恒例番組でしたね。もったいぶらずに紹介します。
それは「第九」の演奏会です。
第九、正式には「ベートーヴェン作曲の交響曲第9番二短調作品125「合唱付」」という曲名です。
調べてみると、テレビだけでなくコンサートでも取り上げることが一気に増えるそうです。
では、世界的にも同様の現象が起きるのかというと,日本ならではの現象とのこと。海外ではヘンデルの「メサイア」が一般的と聞きました。
ここで大きな疑問が生まれます。
どうして、また、いつごろから「第九」がさかんに演奏されるようになったのだろうか?
そもそも日本での初演は、1918年(大正7年)6月1日に徳島県板東町(現在の鳴門市)にあった板東俘虜収容所で行われました。この収容所は、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人を収容していたのですが、かなり彼ら自身に自治を委ね、自由な環境であったことで有名です。
ドイツ人たちによって編成されたオーケストラによって、はじめて奏でられた「第九」は、当時に日本人たちにどのように響いたのでしょうか。
さて、初演については分かりました。年末の恒例行事になったことについては,次のようなことが明らかになりました。
①戦後、どのオーケストラも財政的に厳しい状況だった。
②そのなかで日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が1947年12月に3回の「第九」のコンサートを行った。
③その3回とも観客が集まった。収益もあり、財政的な効果があった。
④それを他のオーケストラも真似し、その後に設立された団体も右にならえをした。
つまり、第九は人気のあるベートーヴェンの曲であることが,客集めに効果があったということのようです。
また、第九は演奏規模が大きく、第4楽章では,オーケストラに加え4人の独唱者、合唱団が加わるので,総勢200〜300名にもなります。それだけの人がチケット販売をしたとすると…かなりの収入になることもうなずけます。
ある調査によると、日本全国で100以上のコンサートがあった年があったといいます。「年末の第九」というスタイルはこれからも引き継がれていくに違いありません。
今年はベートーヴェン生誕250年の記念の年でした。CDの交響曲全集もたくさんの種類が販売されました。コンサートのほうは、コロナの関係で少ないようですが…。
余談ですが、CD(コンパクトディスク)の録音可能時間ですが、流通し始めたころは、74分と決められていたようです。この基準になったのは、第九の演奏時間だったそうです。
サザンカ
腹赤小学校には、この季節ならではの美しい花があります。
それはサザンカです。体育館入り口付近に白、運動場倉庫の側などに赤。ちょうど花が咲き始めたところです。
花が咲き出すと小鳥たちの群れが集まります。多いときは20羽近くのメジロやヒヨドリが蜜を吸いにやって来るのです。それはにぎやかな朝食会場になります。
さて、このサザンカ。ほんとうの名前は「さんざか」なんだそうです。漢字で書くと「山茶花」ですが、「さんざか、さんざか」と読んでいる間に、いつの間にか読みやすい「さざんか」になったという話があります。
ところで、サザンカによく似た花にツバキがあります。種類も同じで、あまりにそっくりなので、専門家でさえ見間違えることがあるようです。
事実、ずいぶん前の話ですが、「春の植木市」の会場で、詳しいお客さんと店の人がもめているのを目撃したことがあります。
では、どんな区別の方法があるかというと
①花の形で区別する
ツバキは花が筒状になり、立体的です。それに比べサザンカは平たい形になります。
②花の散り方で区別する
ツバキは、花が散るとき花首から落ちる。サザンカは、花びらが散る。
(なので、ツバキは縁起が悪いということで、武士に嫌われていたようです。)
③葉の形で区別する
両方とも葉のふちにギザギザがありますが、サザンカのギザギザの方がはっきりしているそうです。ただし、その場で2枚の葉を比べて分かることのようです。
④葉の筋で区別する
葉を日光にすかして見ると、中心の葉の筋(葉脈)が黒っぽく見えるのがサザンカとのことです。ツバキは光をすかすようです。
本校のサザンカは、結構長い間花を楽しむことができます。寒々とした風景に明かりをポッと灯すような冬の風物です。
「さざんか さざんか 咲いた道 たき火だ たき火だ 落ち葉焚き。」そんな光景が似合う季節になりました。
師走を迎えました
つい先日、正月を迎えたような気がするのですが、早いものでもう12月です。花屋さんの店先には美しいシクラメンの鉢が並んでいます。
旧暦で12月のことを「師走」というのですが、その名の由来をご存じですか?
「師」という文字から先生のことと思われがちで「先生方は12月になると忙しいんでしょ?」と尋ねられたことがあります。
しかし、実は「師」は僧侶のことで、仏事に忙しく走り回ることから「師馳す」と言われています。この話は平安時代の物語に載っていますので、まあ間違いがないでしょう。
私が師走を強く意識するのは,次の3つの場面を目にしたときです。いずれも通勤途中に目にするものばかりです。
1 菊池川の川霧
空気が冷えて風のない朝、川の水面より霧が湧き上がっています。専門的には、水温と気温の差が10℃以上、湿度が80%以上の時に発生するそうです。(この条件を満たせば夏でも発生するとのこと)
ここ最近、寒い朝は,川霧が発生しています。少し離れたところから見ると、まるで雲が湧き起こるように低いところに溜まっています。寒くなってきたんだなと実感させられます。
2 小岱山の紅葉
最近は、紅葉する時期が遅くなったようで、校内のイチョウもここ10日ほどの間に黄色くなり、間もなく散ってしまいそうです。
ちょうどその頃に、小岱山の木々も色づきます。針葉樹の濃い緑色に中に,黄色や赤、オレンジがちりばめられ、美しく感じます。でも、その情景が見えるころは「寒さ」が身にしみる季節の始まりでもあります。
3 アトリの群れ
アトリというスズメと同じくらいの大きさの鳥がいます。彼らは、冬になるとシベリア方面から群れをつくってやって来ます。
漢字では「花鶏」と書きます。どうしてこのように記されるようになったのかは定かではありませんが、彼らの姿を見ると「とさか」のような羽があるので、ニワトリのようだと考えたのかも知れません。
また、体の色が、遠目にも鮮やかな茶色(オレンジといってもいいぐらいです)なので「美しい=花」と思われたのかも知れません。
実際、栃木県鹿沼市では、過去10万羽以上のアトリの大群が飛来したそうですが、葉を落とした大木に止まった姿は、枯れ木に花が咲いたようだったといいます。
そんな理由から、「花鶏」とついたのではないでしょうか。(あくまでも私の予想です。)
ここ最近、朝に新玉名駅付近の電線に集まっています。けっこう臆病で、遠くに人がいても車が下を通っても一斉に飛び立ち、しばらく様子をうかがっています。そして辺りの様子を見ていて、安全だと分かると水田に下りて落ち穂や雑草の種子をついばんでいます。
まだ飛来して間もないので数も少ないのですが、しばらくすると大群にふくれあがり、にぎやかに鳴き交わすようになります。
学校の校庭にも、姿を見せるようになります。「キョッ、キョッ、…」という声が聞こえたら、アトリがやって来ている証拠です。冬の訪れを知らせるかわいい小鳥です。
カラスがやってきた!
少しずつ寒さを感じる季節になってきました。
昨日のラジオでは「今年はラニーニャ現象で寒くなる」とのこと。暖冬だった昨年との差を大きく感じることになるかも知れません。
さて、この時期になると、よく見られる光景が「カラスの大群」です。
熊本市では、早朝(日の出のころ)から大きな群れが街の中心部より郊外目指して飛んでいきます。
ここ長洲町でも,稲刈り後の水田に降りて餌をついばむ姿をよく目にします。
中には何百羽という単位で、電線に止まり、電線が切れたり、電線柱が傾いたりするんじゃないかと思うぐらいの規模の場合もあります。
不思議なもので、集まった集団は互いに何かを話し合うようなそぶりを示した後、それぞれがバラバラになって飛び去っていきます。あたかも「出勤」していくようでもあります。
なぜ、このような行動を取るのかということについては、次のような説があります。
その1 みんなで集まればこわくない!
カラスの大群の本来の目的は、一緒に集まって夜を過ごすことにあります。いわゆる「ねぐら」をつくるのです。
そうすることのよさは、天敵から身を守るためだと考えられています。カラスの天敵は、ワシやタカといった猛禽類です。みんなが集まることで、敵の出現に気づきやすくなるのではないかと、ある科学者は考えています。
その2 みんなで井戸端会議!
先にも述べたように、群れの様子を見ていると、時折鳴き交わしたり、一緒に行動してみたりといった姿を見ることができます。これは、つまり何らかの話をしているのではないだろうか…というわけです。
一口にカラスといっても、日本全国で7種類確認されているそうです。基本的に全身黒いので、みんな同じに見えますが、様々な違いがあるようです。
長洲町には、年中留まって生活している「留鳥」である2つの種類が一般的です。
一方が「ハシボソガラス」、もう一方が「ハシブトガラス」です。
ハシボソガラス ハシブトガラス
お気づきのように「くちばし(ハシ)」が細いか太いかで分けられています。
彼らは冬の間だけこの大集団をつくりますが、元来は街中ではなく、山間部に集まっていました。しかし、山が切り開かれて住処にならなくなった、市街地の方が何かと便利だ等の理由で、都市部に集まるようになったようです。
この他に,近年話題に上るのが「ミヤマカラス」がいます。これは大陸の方から渡ってきます。熊本市内の公園に、夜集団をつくり、鳴き声やフンで迷惑をかけることが問題になっています。特徴はくちばしが黄色っぽいことです。
腹赤小近辺は、どちらかというとミヤマカラスが多いようです。
さて、このカラス。大変に知能が高いことで有名です。
実は、この私もその驚くべき姿を目にしたことがあります。そのいくつかを紹介します。
ビックリその1 遊ぶ〜1
この話をすると、誰もが「嘘だろ」と言います。疑われても仕方がないと思いますが本当の話です。
数年前のことです。自宅近所に公園があり、滑り台がありました。(今は老朽化により撤去されましたが…)
ある日のこと、何気なく眺めていると、滑り台のまわりでカラスが数羽集まっていました。(一体何をしているのだろう)と思い、観察していると次の瞬間、ビックリすることが!
カラスが滑り台を滑り降りたのです。羽を広げて両足を使って滑ります。あたかもスキーのジャンプ競技のようです。下まで行くとピョンと地面におり、また台の上まで行きます。
最初は、1羽だけがそうやって遊んでいましたが、次第に残りの仲間(3羽だったと思います)も同じようにして,遊び始めました。
本当に目を疑うような光景でしたが、しばらく滑って遊んで、また登って…を繰り返していました。
その後、幾度もカラスたちの滑り台遊びを見ることができましたから、決して見間違いではありません。
ビックリその2 遊ぶ〜2
カラスがクルミの実をくわえて、道路に配置して自動車にひかせることで、固い実を割って食べることは有名です。ある研究家の観察によれば、タイヤの通る位置をしっかり見て、その場所にピンポイントでクルミを置いているとも聞きました。
私が見たのは,同じ公園で(多分)滑り台遊びの集団ではないかと思われるカラスの集団の行動でした。
ある1羽が小石をくわえて飛び立ちました。(何をするんだろう?)私は興味津々で見ていました。
彼(とりあえず彼にしておきます。彼女かもしれませんが区別がつけにくいそうなので)は公園の広場の上空に達すると,小石を落とします。
すると、別のカラスが同じように石をくわえて、同じように落とします。その落とし方がビックリなのです。
先のカラスの落とした小石を標的にしているような落とし方をしていたのです。この段階では(たまたまのことかも…)とも思えたのですが、次のカラスの行動で「確信」につながりました。
間違いなく,標的にした小石を狙って石を落として遊んでいるのです。
多分これをお読みになっている方は、「嘘だろ!」と思われているでしょう。しかし、事実です。
カラスについては、いろいろな体験があります。またいずれご紹介したいと思います。
体育の日を思い出しながら
東京で最初にオリンピックが行われたのは昭和39年(1964年)のことです。
当時4歳だった私でさえ、テレビを見ながら、入場行進の真似をしたり、一生懸命応援したりした記憶も残っています。
この東京オリンピック、10月10日に開会式を行いました。では、なぜこの日を開会式の日に選んだのかご存じですか。
実は「特異日」であったからだといいます。特異日とは、次のように説明されています。
特異日:その前後の日と比べて、偶然とは思えないほどの
高い確率で特定の気象状況が現れる日のこと。
ある資料によれば、1971年から2000年までの30年間で、10月9日が17回、10月10日が19回、10月11日が14回も雨が全く降らなかったといいます。それだからこそ、この時期を選んだのかも知れません。
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」
といった名文句でラジオの中継放送が行われました。前日の大雨で危ぶまれた開会式でしたが、見事な青空のもとで行われたこと、航空自衛隊による大空に描かれた五輪のマークも思い出に残っています。
様々な競技に力を尽くした世界各国の選手のことは、今でも語り草になっています。
しかし、その大会運営に携わった人々のこと、支えた人々のことも決して忘れてはならないと思います。今回は、1964年の東京オリンピックを支えた人々のこと、特に食にかかわった人々のことを少しばかり紹介したいと思います。
「スープがおいしくない」
世界中から選手が集まる選手村では、実に多種多様、大量の食事を準備する必要があります。そのためには、たくさんのスタッフが必要で、日本中からコックさんたちが集められたといいます。その数何と300名。選手村の開村に先立ち、主なメニューのレシピが配布され、あらかじめ練習しておくように言われたそうです。
オリンピックの選手村では、毎食1万人分の食事を作ります。しかも運動選手なので、1日あたりが6000キロカロリー確保される必要があるということで、膨大な食材が必要であったといいます。
ある日の食材量は、肉15トン、野菜が6トン、卵が29000個にのぼったそうです。それだけの食材を生鮮食料品でまかなうことは難しく、一時的に食料不足を起こす危険性があったといいます。
そこで、オリンピックが始まる半年以上前から,食料品を冷凍してストックしていったのです。当然、冷凍することにより、おいしさを封じ込める技術も飛躍的に発展させたのです。
さて、ここでは書ききれない苦労や努力の結果、選手村のレストランの活動は始まりました。評判は上々でした。
ところが、問題が発生します。ある外国選手から「スープがおいしくない」というクレームが寄せられました。当時の料理長は(一般的なレシピどおりつくっているのに何故?)と首をひねりました。
そこで、その選手の一日に同行して気づくのです。「汗をかくから塩分を欲しているのだ」と。
その後、レストランの味付けを見直しました。ほんのちょっと塩を多めに加えた食事を作るようにしたそうです。
すると「食事が美味しい」という声が聞かれるようになって、さざ波のように広がっていき、大いに評判を高めることができたのです。
相手の言葉に耳を傾け、その意味を探った料理長の姿勢…学びたいものです。
「本場のカレー」
選手村のレストランといえば、政治や国際関係とは切り離された場所と思っていました。
しかし実際はそうではなく、いさかいのまっただ中になることもあるのです。こんな話があります。
当時のインドとパキスタンは、国際的に緊張関係にありました。しかも両国ともホッケーを得意種目とする国でした。
どちらか一方の国の選手がレストランにいる間は,もう一方の国の選手は足を踏み入れようとしないような空気だったそうです。
ある日、インド選手団付きのコックから「本場のカレーをつくるから食材を準備してほしい」という依頼を料理長は受けます。
料理長は、そのリクエストについて相談しながら、あることを思いつきます。
「あなたがたが求める量の2倍の食材を準備するから,私たちにも本場のカレーを味わわせて欲しい」と言ったのです。
するとインドのコックは満面の笑みを浮かべ、お国自慢をしながらカレーを調理してくれたのです。
その後、料理長は、分けてもらったカレーを味わったのでしょうか?
いいえ、日本人スタッフは、一切口に入れることはありませんでした。食べなかったのです。
それでは、カレーはどこに行ってしまったのか。
実は、そのカレーはパキスタン選手たちのもとへ運ばれました。そして、本格的なカレーを食べることができて大喜びをしました。
少し説明を加えると、当時のパキスタンは、小さな国で自分たちの料理人を連れてくることができない状態でした。日本人がつくるカレー料理を黙って食べてはいましたが、満足をしてはいませんでした。本場のカレーを食べたがっていたのです。
それを察した料理長は、知恵を使って、パキスタン選手たちにもカレーを届ける方法を考え出したのです。
「食は人を元気づける」といいますが、国民食を久しぶりに口にした選手たちの喜びと前向きな気持ち、高揚感はいかばかりだったでしょう。
料理長の「人としての素晴らしさ・大きさ」に感動させられました。
オリンピックは2021年になりましたが、きっとたくさんのドラマが繰り広げられることでしょう。そこにもしっかり目を向けていきたいと思います。
白露のころ
昔の人は、草木に降りた露が白く見えることを夏から秋への交代期の目印にしました。これを「白露」といいます。
昼間は残暑が厳しいのですが、朝夕は涼しさを感じます。季節の変わり目で、体調を崩しやすい時期です。くれぐれもご用心ください。
さて、今月は季節の食べ物の話題です。
この食べ物をご存じですか。
そうです。「おはぎ」です。「ぼたもち」と呼んでいるご家庭もあるかも知れません。
実は、この食べ物には,季節ごとの呼び名があるのです。
おはぎ(ここではそう呼ぶことにします)というのは、秋の呼び名です。小豆の粒の一つ一つ
を、萩の花になぞらえて「お萩」と呼ぶようになったと言います。
確かに,秋の彼岸のころに食べることが多いですし、そのころには萩の花が美しく咲いています。
春の彼岸のころにも、食べる習慣があります。ものの本によると、そのころがちょうど牡丹(ボタン)の花の盛りということで、
牡丹のころの餅から「ぼたもち」と呼ぶようになったそうです。
お彼岸のころに、「おはぎ」を食べるのにも,理由があります。
江戸時代のころより、小豆の赤い色には、災難よけのおまじないの意味があったそうで、邪気を払う食べ物として考えられていました。
実際、四十九日の忌明けに食べることも、このころから始まっています。このことが,先祖供養ともつながっていったようです。
今では、年中「おはぎ」と呼んだり、「ぼたもち」と呼んだりするようになったようですが、元々は季節で呼び名を変えていました。
それぞれの季節の呼び名をまとめてみると、次のとおりです。
春 牡丹餅(ぼたもち)
夏 夜船(よふね)
秋 御萩(おはぎ)
冬 北窓(きたまど)
ここで、問題です!
春と秋は、そのころの季節の花から名前を取りました。では、夏と冬は、どんな理由でそう呼ぶようになったのでしょう。
実は,夏と冬の呼び名は、おはぎの作り方に関係しています。
おはぎは、餅とは違って杵(きね)でついて作らないので、隣の家でつくっても「いつついたのか知らない」ということになります。
「いつついたかしらない」は「つき知らず」とも表せます。
夏の夜,船に乗ると辺りの風景を見ることもなく,いつの間にか目的地に到着していることから「着き知らず」ということで「夜船」と呼ばれるようになりました。
対して冬の場合は、北の窓からは月を見ることはできません。つまり「月知らず」ということで「北窓」と呼ばれるようになりました。
いわゆる「しゃれ言葉」ですが、昔の人は、よく考えて名付けたものだと感心します。