学校の沿革

学校の概要

 

  本校区は、古い歴史があります。「腹赤」という名称は、景行天皇御西下の折り、一漁師が献上した魚の腹が赤かったので『腹赤の浜』と名付けられ、その後この呼び名が村称になったと伝えられています。今なお景行天皇や御刀媛にまつわる伝承が残されています。

 

 四方の海 波静かなる御代なれば腹赤の贄もけふ供ふなり 言塵集)

 

 
  
「腹赤の魚が無事に元日の節会に供えられたことは、四方の海静かな泰平の御代で、大へんめでたいことである」~衣笠右大臣の歌~

『天平15年(743年)正月14日、太宰府より景行天皇の故事にならって、初めて肥後の名産である腹赤の魚を朝廷に献上した。時の聖武天皇は大へん喜ばれて、毎年正月元日の節会に供える式魚と定められた。』「公事根源より」(1422年)


 近世になり、加藤清正公を受け継ぎ細川氏になると、ますます干拓・新田の開発が進みました。行末塘・菜切塘・古塘・塩屋塘など今でも、塘のおもかげが各地に残っています。

 明治44年の塩業禁止の施行により、塩田廃止になるまでは、沖の洲の沿岸を中心に各地には塩田がひらけ新川港が栄えました。塩田廃止後、水田整地がだんだん進みました。

 昭和31年六栄村と合併して、腹赤村として発展し、昭和32年長洲町に合併し、ますます発展の兆しを見せました。
 昭和47年より沖の洲地先の埋め立てが行われ、東洋サッシ、日立造船関連企業の工場進出により、町全体が活気づき会社員として働く人が増えてきました。公共施設として、総合スポーツセンター・健康福祉センター等も設置され充実しました。

 本校区は、南に上沖の洲があり有明海に面しています。学校までは2キロ程度の距離で、清源寺・平原・上沖洲・腹赤・腹赤新町の5地区に分かれています。