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2019年11月の記事一覧

群れ

 秋が深まると、鳥たちの世界にも大きな動きがあります。
 その一つが「渡り」。夏の間日本で過ごした鳥が暖かい地方に移動するのですが、ここ腹赤もその鳥たちの通過点になっています。最も有名なのは「ツバメ」です。

 1ヶ月前ぐらいのことです。学校側の電線に30羽ほどの集団をつくり、しばらく水田の上を飛び交っていたかと思うと、翌日には姿を見かけなくなりました。どうやら,南の国へと旅だって行ったようです。


 そして「集団化」も一つの動きのようです。
 夏の間は、ばらばらで暮らしていた鳥たちが群れをつくっていきます。その顕著な鳥が「スズメ」です。
 学校の近くの稲刈り後の水田にも群雀が見られます。

 雀という鳥。古くから人々のくらしと深くかかわってきました。ある研究者によれば、雀は人なしでは暮らせないとも言います。
 例えば、日本家屋だからこそ、雀は巣づくりができるのです。瓦などの隙間や通気口に巣をつくり、子育てをします。
 腹赤小学校には、それがあるため雀のお宿になっています。

 また、子育ての時期は、水田や畑、森に発生する虫がヒナの餌になります。
 害鳥として見られることが多い雀ですが、実際にはそうではないという調査結果もあります。この話については、またの機会にと思います。

 

夕焼け

 この写真は,先日写したものです。沈みゆく太陽が、辺りを美しく染め上げていく様子に感動しました。

夕焼けを見ていると、ふと思い出されるのが「家路」という曲です。

 遠き山に日は落ちて   星は空をちりばめぬ
 今日のわざを成し終えて 心かろく安らえば
 風は涼しこの夕べ    いざや楽しまどいせん


  もともとは、ドヴォルザークという作曲家がかいた交響曲第9番第2楽章のメロディに,堀内敬三という方が歌詞をつけたのですが、何とも郷愁誘われる一曲だと思います。
 メロディは次のようなものです。

 この曲のエピソードを調べてみると,次のことが分かりました。
 ①ドヴォルザークさんはチェコの作曲家で、この曲はアメリカの音楽学校に校長として招かれていた時期に作曲されたものである。
 ②交響曲第9番には「新世界より」という題が付いているが、これは「アメリカよりチェコへ」という意味が込められている。
 ③アメリカの黒人や少数民族の音楽から旋律や主題を借りて作曲したという説があったが、それは誤解であるらしい。
 ④アメリカの黒人の音楽の旋律が、生まれ故郷のチェコの音楽によく似ていたことから刺激を受けて作曲したというのが本当らしい。
 ⑤この交響曲の第2楽章が「家路〜Going Home」と呼ばれる名曲になっている。演奏速度はラルゴ(ゆるやかに)である。
 ⑥さらに、イングリッシュホルン(コールアングレとも)の独奏が有名。


 もともと、ヨーロッパの民族音楽の中には,日本人にも受け入れやすいものが多いと聞きます。グリーンスリーブスやダニーボーイといった曲も、もとはイギリスの民族音楽です。そういう聞きやすさ、親しみやすさもあって、広く日本でも愛されるようになったのかも知れません。


 蛇足ながら、この曲のトリビアをいくつか。
 ⑦交響曲なので様々な楽器が使われるが、45分ほどの演奏でたった一度だけ使用される楽器がシンバルである。
 ⑧ある有名なジャズプレイヤーは、大学時代にオーケストラの打楽器奏者のアルバイトをしていて、この曲の演奏でシンバルを担当したが、つい居眠りをしてしまい気づいたら出番直前だった。あわててシンバルをもって立ち上がったときにシンバルを落とし、指揮者の横まで転げていった。このミスで演奏は台無しになり、オーケストラから放り出された。
 ⑨実際には、どこでシンバルが鳴ったか分からない、なくても気づかないと言われることもある。
 ⑩宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にもこの曲が登場する。「新世界交響楽」と表されている。

 晩秋の夜長、みなさんはどのようにお過ごしになられますか。
 私は、ドヴォルザークを聴きながら読書を楽しもうかと考えているところです。今月は読書月間!

 

秋深し・・・

 すっかり秋らしくなってきました。朝の気温が10度を下回ることも増え、吐く息が白くなることに冬が近づいてきていることを痛感させられます。

 まさに、秋深し・・・です。

 先日のニュースでは、早くもインフルエンザの流行を伝えるものがありました。ご用心ください。

 

 さて、「秋深し」という言葉で始まる句といえば、松尾芭蕉の「秋深し 隣は何をするひとぞ」です。
 1694年(元禄7年)に、芭蕉が句会に病気欠席するときに、弟子に渡した発句(最初に出す句)だとのことです。

 この句はたいへん有名で、この季節になるとあちらこちらで目にすることが増えます。ところが、大きな間違いがあるそうです。芭蕉の詠んだ句は、本当は「秋深し」ではなく「秋深き」なんだそうです。


「秋深し 隣は何をするひとぞ」

 「秋深き 隣は何をするひとぞ」


 一文字違うだけで、趣が変わります。意味もまったく変わってしまうようなのです。
「秋深し…」の方は、「秋の深まりとともに、物静かな空気が流れ、隣の人の生活音が聞こえて何をしているかが気になる」と解釈されます。
「秋深き…」の方は、「こんなに秋が深まったよい季節に、皆さんは何をなさっているのですか?(句会をなさっていますか。私が欠席してしまい、申し訳ありません。)」ということになるのだそうです。いわゆるお詫びのメッセージです。

 まったくもって大きな違いがありますね。もっとも、芭蕉の弟子の中には、「し」だと思い込んでいた人もいたといいますから、我々が間違えても仕方ないかなとも思います。