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2020年10月の記事一覧

カラスがやってきた!

 少しずつ寒さを感じる季節になってきました。

 昨日のラジオでは「今年はラニーニャ現象で寒くなる」とのこと。暖冬だった昨年との差を大きく感じることになるかも知れません。

 さて、この時期になると、よく見られる光景が「カラスの大群」です。
 熊本市では、早朝(日の出のころ)から大きな群れが街の中心部より郊外目指して飛んでいきます。

 ここ長洲町でも,稲刈り後の水田に降りて餌をついばむ姿をよく目にします。

 中には何百羽という単位で、電線に止まり、電線が切れたり、電線柱が傾いたりするんじゃないかと思うぐらいの規模の場合もあります。
 不思議なもので、集まった集団は互いに何かを話し合うようなそぶりを示した後、それぞれがバラバラになって飛び去っていきます。あたかも「出勤」していくようでもあります。
 なぜ、このような行動を取るのかということについては、次のような説があります。

 

 その1 みんなで集まればこわくない!
 カラスの大群の本来の目的は、一緒に集まって夜を過ごすことにあります。いわゆる「ねぐら」をつくるのです。
 そうすることのよさは、天敵から身を守るためだと考えられています。カラスの天敵は、ワシやタカといった猛禽類です。みんなが集まることで、敵の出現に気づきやすくなるのではないかと、ある科学者は考えています。

 その2 みんなで井戸端会議!
 先にも述べたように、群れの様子を見ていると、時折鳴き交わしたり、一緒に行動してみたりといった姿を見ることができます。これは、つまり何らかの話をしているのではないだろうか…というわけです。


 一口にカラスといっても、日本全国で7種類確認されているそうです。基本的に全身黒いので、みんな同じに見えますが、様々な違いがあるようです。
 長洲町には、年中留まって生活している「留鳥」である2つの種類が一般的です。
 一方が「ハシボソガラス」、もう一方が「ハシブトガラス」です。

     

     ハシボソガラス            ハシブトガラス

 お気づきのように「くちばし(ハシ)」が細いか太いかで分けられています。


 彼らは冬の間だけこの大集団をつくりますが、元来は街中ではなく、山間部に集まっていました。しかし、山が切り開かれて住処にならなくなった、市街地の方が何かと便利だ等の理由で、都市部に集まるようになったようです。

 この他に,近年話題に上るのが「ミヤマカラス」がいます。これは大陸の方から渡ってきます。熊本市内の公園に、夜集団をつくり、鳴き声やフンで迷惑をかけることが問題になっています。特徴はくちばしが黄色っぽいことです。

 腹赤小近辺は、どちらかというとミヤマカラスが多いようです。


 さて、このカラス。大変に知能が高いことで有名です。
 実は、この私もその驚くべき姿を目にしたことがあります。そのいくつかを紹介します。

ビックリその1 遊ぶ〜1
 この話をすると、誰もが「嘘だろ」と言います。疑われても仕方がないと思いますが本当の話です。
 数年前のことです。自宅近所に公園があり、滑り台がありました。(今は老朽化により撤去されましたが…)
 ある日のこと、何気なく眺めていると、滑り台のまわりでカラスが数羽集まっていました。(一体何をしているのだろう)と思い、観察していると次の瞬間、ビックリすることが!
 カラスが滑り台を滑り降りたのです。羽を広げて両足を使って滑ります。あたかもスキーのジャンプ競技のようです。下まで行くとピョンと地面におり、また台の上まで行きます。
 最初は、1羽だけがそうやって遊んでいましたが、次第に残りの仲間(3羽だったと思います)も同じようにして,遊び始めました。
 本当に目を疑うような光景でしたが、しばらく滑って遊んで、また登って…を繰り返していました。
 その後、幾度もカラスたちの滑り台遊びを見ることができましたから、決して見間違いではありません。

 

 ビックリその2 遊ぶ〜2
 カラスがクルミの実をくわえて、道路に配置して自動車にひかせることで、固い実を割って食べることは有名です。ある研究家の観察によれば、タイヤの通る位置をしっかり見て、その場所にピンポイントでクルミを置いているとも聞きました。


 私が見たのは,同じ公園で(多分)滑り台遊びの集団ではないかと思われるカラスの集団の行動でした。
 ある1羽が小石をくわえて飛び立ちました。(何をするんだろう?)私は興味津々で見ていました。
 彼(とりあえず彼にしておきます。彼女かもしれませんが区別がつけにくいそうなので)は公園の広場の上空に達すると,小石を落とします。
 すると、別のカラスが同じように石をくわえて、同じように落とします。その落とし方がビックリなのです。
 先のカラスの落とした小石を標的にしているような落とし方をしていたのです。この段階では(たまたまのことかも…)とも思えたのですが、次のカラスの行動で「確信」につながりました。
 間違いなく,標的にした小石を狙って石を落として遊んでいるのです。
 多分これをお読みになっている方は、「嘘だろ!」と思われているでしょう。しかし、事実です。


  カラスについては、いろいろな体験があります。またいずれご紹介したいと思います。

 

体育の日を思い出しながら

 東京で最初にオリンピックが行われたのは昭和39年(1964年)のことです。
 当時4歳だった私でさえ、テレビを見ながら、入場行進の真似をしたり、一生懸命応援したりした記憶も残っています。


 この東京オリンピック、10月10日に開会式を行いました。では、なぜこの日を開会式の日に選んだのかご存じですか。
 実は「特異日」であったからだといいます。特異日とは、次のように説明されています。

 特異日:その前後の日と比べて、偶然とは思えないほどの
     高い確率で特定の気象状況が現れる日のこと。


 ある資料によれば、1971年から2000年までの30年間で、10月9日が17回、10月10日が19回、10月11日が14回も雨が全く降らなかったといいます。それだからこそ、この時期を選んだのかも知れません。


「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」


といった名文句でラジオの中継放送が行われました。前日の大雨で危ぶまれた開会式でしたが、見事な青空のもとで行われたこと、航空自衛隊による大空に描かれた五輪のマークも思い出に残っています。

 様々な競技に力を尽くした世界各国の選手のことは、今でも語り草になっています。
 しかし、その大会運営に携わった人々のこと、支えた人々のことも決して忘れてはならないと思います。今回は、1964年の東京オリンピックを支えた人々のこと、特に食にかかわった人々のことを少しばかり紹介したいと思います。

「スープがおいしくない」

 世界中から選手が集まる選手村では、実に多種多様、大量の食事を準備する必要があります。そのためには、たくさんのスタッフが必要で、日本中からコックさんたちが集められたといいます。その数何と300名。選手村の開村に先立ち、主なメニューのレシピが配布され、あらかじめ練習しておくように言われたそうです。
 オリンピックの選手村では、毎食1万人分の食事を作ります。しかも運動選手なので、1日あたりが6000キロカロリー確保される必要があるということで、膨大な食材が必要であったといいます。
 ある日の食材量は、肉15トン、野菜が6トン、卵が29000個にのぼったそうです。それだけの食材を生鮮食料品でまかなうことは難しく、一時的に食料不足を起こす危険性があったといいます。
 そこで、オリンピックが始まる半年以上前から,食料品を冷凍してストックしていったのです。当然、冷凍することにより、おいしさを封じ込める技術も飛躍的に発展させたのです。


 さて、ここでは書ききれない苦労や努力の結果、選手村のレストランの活動は始まりました。評判は上々でした。
 ところが、問題が発生します。ある外国選手から「スープがおいしくない」というクレームが寄せられました。当時の料理長は(一般的なレシピどおりつくっているのに何故?)と首をひねりました。
 そこで、その選手の一日に同行して気づくのです。「汗をかくから塩分を欲しているのだ」と。

 その後、レストランの味付けを見直しました。ほんのちょっと塩を多めに加えた食事を作るようにしたそうです。
 すると「食事が美味しい」という声が聞かれるようになって、さざ波のように広がっていき、大いに評判を高めることができたのです。
 相手の言葉に耳を傾け、その意味を探った料理長の姿勢…学びたいものです。

 

「本場のカレー」

 選手村のレストランといえば、政治や国際関係とは切り離された場所と思っていました。
 しかし実際はそうではなく、いさかいのまっただ中になることもあるのです。こんな話があります。
 当時のインドとパキスタンは、国際的に緊張関係にありました。しかも両国ともホッケーを得意種目とする国でした。
 どちらか一方の国の選手がレストランにいる間は,もう一方の国の選手は足を踏み入れようとしないような空気だったそうです。


 ある日、インド選手団付きのコックから「本場のカレーをつくるから食材を準備してほしい」という依頼を料理長は受けます。
 料理長は、そのリクエストについて相談しながら、あることを思いつきます。
「あなたがたが求める量の2倍の食材を準備するから,私たちにも本場のカレーを味わわせて欲しい」と言ったのです。
 するとインドのコックは満面の笑みを浮かべ、お国自慢をしながらカレーを調理してくれたのです。


 その後、料理長は、分けてもらったカレーを味わったのでしょうか?
 いいえ、日本人スタッフは、一切口に入れることはありませんでした。食べなかったのです。
 それでは、カレーはどこに行ってしまったのか。

 実は、そのカレーはパキスタン選手たちのもとへ運ばれました。そして、本格的なカレーを食べることができて大喜びをしました。

 少し説明を加えると、当時のパキスタンは、小さな国で自分たちの料理人を連れてくることができない状態でした。日本人がつくるカレー料理を黙って食べてはいましたが、満足をしてはいませんでした。本場のカレーを食べたがっていたのです。
 それを察した料理長は、知恵を使って、パキスタン選手たちにもカレーを届ける方法を考え出したのです。


 「食は人を元気づける」といいますが、国民食を久しぶりに口にした選手たちの喜びと前向きな気持ち、高揚感はいかばかりだったでしょう。
 料理長の「人としての素晴らしさ・大きさ」に感動させられました。

 

 オリンピックは2021年になりましたが、きっとたくさんのドラマが繰り広げられることでしょう。そこにもしっかり目を向けていきたいと思います。