季節のたより
夕焼け
この写真は,先日写したものです。沈みゆく太陽が、辺りを美しく染め上げていく様子に感動しました。
夕焼けを見ていると、ふと思い出されるのが「家路」という曲です。
遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ
今日のわざを成し終えて 心かろく安らえば
風は涼しこの夕べ いざや楽しまどいせん
もともとは、ドヴォルザークという作曲家がかいた交響曲第9番第2楽章のメロディに,堀内敬三という方が歌詞をつけたのですが、何とも郷愁誘われる一曲だと思います。
メロディは次のようなものです。
この曲のエピソードを調べてみると,次のことが分かりました。
①ドヴォルザークさんはチェコの作曲家で、この曲はアメリカの音楽学校に校長として招かれていた時期に作曲されたものである。
②交響曲第9番には「新世界より」という題が付いているが、これは「アメリカよりチェコへ」という意味が込められている。
③アメリカの黒人や少数民族の音楽から旋律や主題を借りて作曲したという説があったが、それは誤解であるらしい。
④アメリカの黒人の音楽の旋律が、生まれ故郷のチェコの音楽によく似ていたことから刺激を受けて作曲したというのが本当らしい。
⑤この交響曲の第2楽章が「家路〜Going Home」と呼ばれる名曲になっている。演奏速度はラルゴ(ゆるやかに)である。
⑥さらに、イングリッシュホルン(コールアングレとも)の独奏が有名。
もともと、ヨーロッパの民族音楽の中には,日本人にも受け入れやすいものが多いと聞きます。グリーンスリーブスやダニーボーイといった曲も、もとはイギリスの民族音楽です。そういう聞きやすさ、親しみやすさもあって、広く日本でも愛されるようになったのかも知れません。
蛇足ながら、この曲のトリビアをいくつか。
⑦交響曲なので様々な楽器が使われるが、45分ほどの演奏でたった一度だけ使用される楽器がシンバルである。
⑧ある有名なジャズプレイヤーは、大学時代にオーケストラの打楽器奏者のアルバイトをしていて、この曲の演奏でシンバルを担当したが、つい居眠りをしてしまい気づいたら出番直前だった。あわててシンバルをもって立ち上がったときにシンバルを落とし、指揮者の横まで転げていった。このミスで演奏は台無しになり、オーケストラから放り出された。
⑨実際には、どこでシンバルが鳴ったか分からない、なくても気づかないと言われることもある。
⑩宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にもこの曲が登場する。「新世界交響楽」と表されている。
晩秋の夜長、みなさんはどのようにお過ごしになられますか。
私は、ドヴォルザークを聴きながら読書を楽しもうかと考えているところです。今月は読書月間!
秋深し・・・
すっかり秋らしくなってきました。朝の気温が10度を下回ることも増え、吐く息が白くなることに冬が近づいてきていることを痛感させられます。
まさに、秋深し・・・です。
先日のニュースでは、早くもインフルエンザの流行を伝えるものがありました。ご用心ください。
さて、「秋深し」という言葉で始まる句といえば、松尾芭蕉の「秋深し 隣は何をするひとぞ」です。
1694年(元禄7年)に、芭蕉が句会に病気欠席するときに、弟子に渡した発句(最初に出す句)だとのことです。
この句はたいへん有名で、この季節になるとあちらこちらで目にすることが増えます。ところが、大きな間違いがあるそうです。芭蕉の詠んだ句は、本当は「秋深し」ではなく「秋深き」なんだそうです。
「秋深し 隣は何をするひとぞ」
「秋深き 隣は何をするひとぞ」
一文字違うだけで、趣が変わります。意味もまったく変わってしまうようなのです。
「秋深し…」の方は、「秋の深まりとともに、物静かな空気が流れ、隣の人の生活音が聞こえて何をしているかが気になる」と解釈されます。
「秋深き…」の方は、「こんなに秋が深まったよい季節に、皆さんは何をなさっているのですか?(句会をなさっていますか。私が欠席してしまい、申し訳ありません。)」ということになるのだそうです。いわゆるお詫びのメッセージです。
まったくもって大きな違いがありますね。もっとも、芭蕉の弟子の中には、「し」だと思い込んでいた人もいたといいますから、我々が間違えても仕方ないかなとも思います。
冬の使者 来る!
今年も「外国からの訪問者」が学校内に現れました。
その訪問者は、
1 毎年 秋の終わり頃にやってきて、春になると旅立ちます。
2 男性と女性では、男性の方が派手な 「いでたち」です。
3 小さな声で「ヒッヒッ…カッカッ…」と鳴きます。
その正体は、ジョウビタキという鳥です。
↑ ジョウビタキ(オス) ↑ ジョウビタキ(メス)
かなり動きが素早いので、なかなか気づかれないことがあるようです。学校近辺では10月23日に初めて姿を見ることができました。
どんな鳥かまとめてみると、
①大きさは、スズメぐらいである。オスは頭上が白く目の周りが黒い。メスは頭が淡褐色。胸から腹、 尾にかけてはオスメスとも橙色をしている。翼は黒褐色だが中ほどに白くて細長い斑点がある。
②渡り鳥である。夏の間は、チベット、中国東北部、バイカル湖付近で過ごし、冬になると日本や中国南部、インドシナ半島で生活する。
③なわばりをもった鳥である。平地からの低山の明るく開けた林の中に生息する。人里や都市部の公園などでもよく見られる。縄張りを作って同種を追い出そうとする習性があり、ときには鏡に映った自分の姿にも攻撃を加えるほど。
④雑食である。昆虫類を主に食べる。冬場は木の実なども食べる。
冬の訪れを感じさせる鳥です。小さな声でしっぽを振るわせて鳴いている鳥がいたら,ジョウビタキかもしれません。
秋の香り
私の秋の楽しみの一つは、モクセイの花の香りです。
朝早くに、どこからのもなく漂ってくる芳香は「秋が来たなあ」という気分にさせます。
さて、モクセイという花は、漢字で書くと「木犀」と表します。これは木の犀(サイ:動物のサイ)です。
どうしてサイなのか。それは、幹の表面がサイの皮膚のような質感だからだと言われています。「何となくそんな風に見えるから…」というあまり根拠のない理由で名付けられたモクセイですが、その香りは次の句で詠われているように素晴らしいものです。
夜霧とも木犀の香の行方とも(中村汀女)
この句には、具体的な風景は描かれていませんが、夜のしじまに流れる霧のように香りが広がってくる様子を表しているように思います。秋の夕べの何とも言えない美しさを感じます。
いずれも原産地は中国南部で、江戸時代に渡来しました。雌雄異株で、日本に伝わったは雄の木だけなので、実がなることはないようです。(おしべ2本と形ばかりのめしべがあります。)
また、中国では「桂花」と呼ばれます。キン、ギン、ウスギという日本の呼び方は、中国では次のようになります。
キンモクセイ → 丹桂(赤い桂花)
ギンモクセイ → 銀桂(銀の桂花)
ウスギモクセイ→ 金桂(金の桂花)
面倒なことになりました。金なのに赤、薄い黄色なのに金…。
これも文化の違いに起因するものなのかも知れません。
少しずつ香りが薄くなってきましたが、しばらくは花が楽しめそうです。
モズ来る
「キーキーキー」「キチキチキチ」。甲高い声が学校中に響きます。
毎年、この時期になるとモズがやってきて、メタセコイア(校舎と体育館の間の中庭にある巨木です)の梢にとまって、しきりに声を張り上げるように鳴いています。
さて、この高鳴きは「なわばり」の意思表示です。これからエサが少なくなるこの時期に、自分の領地(テリトリー)を宣言しているのです。
モズのエサですが、彼らのくちばしを見ると分かります。鋭く先が曲がっているのは、ワシやタカなどの猛禽類のそれと似ています。肉を引きちぎりやすい形状なのです。
ある本を読んでいたら、モズがスズメを襲っていたという記述を目にしたことがあります。また、小さな昆虫をくちばしでちぎりながら食べている姿を見たこともあります。
モズの習性として2つ有名なものがあります。次の2つです。
①「はやにえ」
木の枝先や道端の看板の針金部分に、バッタやトカゲなどの小動物が突き刺さっていることがあります。これは、モズが捕まえた生き物を刺した「はやにえ」というものです。
以前は、食料の乏しくなる冬場に備える行動だといわれていましたが、最近の研究では、どうもそうではなさそうだというのが通説になっています。実際、はやにえを食べた形跡が稀であり、春先までずっとミイラ状態になって晒されていることも少なくないようです。
では、なぜそんな行動をとるのか。どうやら本能のなせるわざで、ついついやってしまうようです。だから大して執着もなく放置してしまうようです。
②「鳴きまね」
モズは漢字で「百舌」と書きます。
これは、様々な鳥の鳴き声を真似た複雑なさえずりをするために、百(も)の舌と表したようです。
鳥類学会の研究論文のひとつを読んでみると、ホオジロ、シジュウカラ、ヒバリ、メジロなどの鳴き方を真似ていたという記録があります。
今、この文章を書いているときにも、外でモズが鳴いています。ケーンケーンという鋭い声が子どもたちの元気な声に交じって響いています。秋の深まりを感じます。
モズにちなんだ句をひとつ紹介します。
モズ鳴くや むら雨かわく うしろ道 小林一茶
秋の雨後の、青空が目に浮かびます。