令和7年 7月
7月31日(木)
今日で7月が終わります。夏休みが13日過ぎました。全体の3分の1です。昨日は日本最高気温41.2度が、兵庫県丹波市で記録されました。熊本も猛暑日が続いています。十分気をつけてお過ごしください。
【午前中、木山邦博校長先生が、ペンキ塗りをされました。指令台の他に、一輪車をかける台がさびていたので、それも一緒にペンキ塗りをされました。他にもきれいになっているところがあります。2学期、子どもたちが喜んでくれると嬉しいです。】
【夏休み期間中、学校では様々な検査がおこなわれます。本日は午後から火災報知器の点検がおこなわれました。火災報知器は教室や廊下に設置されているのは知っていましたが、児童が雑巾を洗う所の部屋などにも設置してありました。】
御船町教育委員会は「みんながわくわくする御船町づくり」を推進しています。具体的には「英語日本一のまちづくり」です。小学校入学の段階から外国語(英語)の音声や 基本的な表現に慣れ親しみ、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成しています。また、英語を通して言語や文化に対する理解を深め、「聞くこと」「話すこと」等の実践的コミュニケーションの基礎を培うことをねらいとしています。7月29日(火)、本校から井島あゆみ教頭と情報教育主任牛島晋治教諭が、台湾研修に出かけました。総勢6名の台湾研修です。日本と台湾は時差がちょうど1時間です。本日日本時間16時10分、台湾時間15時10分から、台湾の台北市清水国民小学校と御船町教育委員会、小坂小学校、御船小学校をグーグルミートでつなぎ、情報機器のシステム確認と情報交換をおこないました。最初、コード入力で不具合が生じましたが、すぐに解消しました。今後システムが順調に作動すれば、子どもたち同士の交流をおこなっていきます。今回はその下準備です。これからの教育は、「国際教育と情報教育」は必須ですね。
7月30日(水)
【本日午前8時25分頃、カムチャッカ半島付近を震源とする、マグニチュード8.7の地震が発生しました。津波も発生しました。被害が少ないことを祈ります。連日猛暑が続いています。7月も今日を含め残り2日間です。気象台発表によると、6月は観測史上、最も平均気温が高かったことが発表されました。7月の気温も、基準値より2.9度高くなったことを発表していました。6月、7月と2ヶ月にわたり、観測史上最高平均気温を示したことになります。もし電気がストップしたら、もし水が断水したら等、もしもの場合を考えておきたいですね。】
【朝から、工事車両が入りました。本校敷地内に、大きな貯水タンクを設置するための下準備作業だそうです。】
【子どもたちの学習効果をあげる手段の一つとして、「板書のくふう」があります。2年前の夏休みに、全クラスの黒板に10㎝×10㎝の方眼を、マジックで書きました。しかし、年月とともに薄れてきました。今日からまた、黒板に10㎝×10㎝の方眼を、マジックで書きはじめました。】
【7回目】今回は学校生活をはなれ、当時の家庭生活等はどういうものだったかをお話しします。我が家にテレビが来たのは昭和37、8年頃ではなかったかと思います。白黒のブラウン管テレビです。足が4本あり、その上にテレビがのっていました。テレビをみない時は、小さなテレビ用カーテンを降ろしていました。放送局はNHKとRKKの2局です。電源は押しボタン式、チャンネルはくるくる回す式のものでした。当時は1家に1台しかテレビはなかったので、好きなアニメなど、なかなかみることができませんでした。洗濯機は2層式のものでした。洗い終わったら、脱水をする所に衣服を移します。遠心力を使って脱水します。しかし、きちんと衣類がおさまっていないと、大きな音をたて、洗濯機が止まってしまうことが度々でした。電話は昭和40年代に入り、徐々に各家庭に普及してきました。それまでは、地域のお店屋さんやお米屋さんなどに電話があったので、それを借りたりしていました。通信手段としては、電報も結構活用されていましたよ。お風呂を沸かすことは大変でした。今はボタン一つでお湯がわきますが、私の家では石炭を使っていました。私の夏休みの手伝いは風呂たきです。まず灰をだし、新聞紙を燃やし、その上にそっとたきもん(小さな木片)を置きます。たきもんに火がついたら徐々に石炭を乗せていきます。晴れた日は、すぐに火がつくのですが、雨の日や夕立の後は、釜がぬれているのでなかなか火がつきませんでした。苦労しましたね。道路は今のように全てが舗装してあるわけではありません。ジャリ道やでこぼこ道が多かったです。家の玄関前には木製の牛乳入れや、1辺が60㎝~70㎝の立方体をした、コンクリート製のごみ入れがあったのを覚えています。夕方になると、自転車に乗って、豆腐やあげを売りに来られていました。私が好きだったのは、ロバがひいてくる「ロバのパン」です。途中からはロバではなく、車に変わりましたね。紙芝居屋さんも来ていました。5円か10円を払ってみていました。紙芝居屋さんの後をついて行き、帰りが遅くなって叱られたこともありました。とにかく今と違って、時間がゆっくり流れていたような感覚があります。
今から約60年前の小学校はどのようなことをおこなっていたのか、どのような環境だったのか等の話はこれで終了させていただきます。ありがとうございました。
7月29日(火)
【今日も多くの職員が出勤し、職員朝会に参加しています。】
【午前10時30分の熱中指数です。気をつけてお過ごしください。】
【午前中、職員作業で、体育館の体育倉庫とポンプ倉庫の2ヶ所を整理整頓しました。汗びっしょりになりましたが、整理整頓をすると気持ちいいですね。】
【体育倉庫】
【ポンプ倉庫】
【6回目】遊びはどんな遊びをしていたかというと、もちろんドッジボールはよくしていました。しかし、サッカーなどはほとんどやったことがありません。体育の授業でラインサッカーをするぐらいでした。柔らかいゴムボールを使った三角ベースボールは運動場や、稲刈りをした後の田んぼなどでよくしましたね。3つの円を描いて、そこを何周か回る「ろくむし」というのもよくしました。砂場では、穴を掘り、その上に新聞紙を敷き、そっと上から砂をかけた「落とし穴」なども作っていましたよ。また、かちかちになる「どろだんご作り」もよくやっていました。朝は集団登校などない時代でしたので、朝7時頃学校に行っていました。理由は運動場で遊ぶ場所とりです。場所は早いもの勝ちだったからです。鉄棒では犬とび、猫とび、えびあがりなどをしたり、ブランコでは靴を遠くまでとばせたり、雲梯では1本とばしや2本とばしで進んでいったりしていました。くぎぬかしや、ケンケンパなどもやっていました。女の子は輪ゴムをつないで、ゴムとびなどもしていましたよ。とにかく朝、10分休み、業間の20分休み、昼休み、はだしでとびだし、遊び、そしてちょこちょこと水で足を洗い、全速力で教室にもどっていました。とても遊んでいた記憶があります。
7月28日(月)
夏休み、ちょうど残り1ケ月ですね。いかがお過ごしでしょうか。暑さのせいで、子どもたちの姿はなく、運動場は静まりかえっています。
【午前中、木山邦博校長先生が、指令台の修理をされました。板が痛んでいたので張り替えられました。2学期運動会の時、指令台が活躍すると思います。】
【学校では、理科の授業のため、めだかを飼っています。水槽が汚れたので、今日は水槽の掃除をしました。】
【4回目】算数通信を昨年度は118号発刊しました。本年度は1学期37号まで発刊しました。私が小学生の頃も、担任の先生方は学級通信を出されていました。先生方は鉄筆(先が鉄でできている鉛筆のようなもの)を使い、原紙にクラスのできごとや学校行事等を書かれていました。間違った文字はオレンジ色の修正液で消されていたと思います。原紙ができあがったら、版画を刷るような謄写版にその原紙をセットされます。そして1枚1枚版画を刷るようにすっていかれました。放課後、よく印刷するのを手伝った思い出があります。学級通信一枚作るにも、多大な時間を費やされていました。通知表は1、2、3、4、5の5段階評価でした。当時は、1クラス5が7%、4が24%、3が38%、2が24%、1が7%と決まっていました。例えばそのクラスの児童数が40人だった場合、5は3人と決まっていました。これを相対評価といいます。現在は、Aが何人、Bが何人、Cが何人と決まっているわけではありません。条件を満たせば、極端な話、クラス全員がAの場合もあります。これを絶対評価といいます。当時の通知表は、いいこと悪いこと、いろいろ書かれていました。私の通知表には、いい言葉だと「責任感が強い。」悪い言葉だと「わがままである。」とよく書かれていました。
【5回目】教科は、国語、算数、理科、社会、音楽、図工、家庭、体育でした。生活科や総合、外国語などはありません。それに週6日登校です。土曜日は3時間授業で給食はありません。昼食は家で食べていました。城山小学校には体育館がなかったので、雨の日は体育が中止になっていました。よく担任の先生の手を引っ張り、「雨の中で体育をしよう。」と言って困らせていたのを覚えています。様々な校内大会もたくさんありました。漢字大会、計算大会はもとより、硬筆大会といって、文字をきれいに書く大会もあっていました。硬筆用紙を個人で100枚も200枚も購入し、毎日練習していましたね。読書感想文コンクール、写生大会、水泳大会、なわとび大会、マラソン大会、楽焼大会、他にもまだまだあったと思いますが、忘れてしまいました。私は現在、子どもたちに算数を専門に教えている算数専科をしています。帯分数を学習する時、現在は「2と3分の1」と言っていますが、当時は「2か3分の1」と言っていました。また、あまりのあるわり算では、現在は「あまり」と言葉で表記しますが、当時は「・・・」3つの点を書いてあまりと呼んでいました。タブレットや、インターネットなどを使用する学習など、当時からすれば想像すらできませんでした。ちなみに、夏休み、学習の予習や復習をする手立ての一つに、タブレットやパソコンの活用があります。例えば、1年生の算数のひき算をもう一度学習したいときは、「小学校1年生 算数 ひき算 動画 」と検索していただくと、わかりやすい動画や問題等がでてきます。学習方法の一つとして、知ってもらえれば嬉しいです。
7月25日(金)
夏休みに入り1週間が過ぎました。いかがお過ごしでしょうか。日本全国、酷暑になっています。北海道で気温が40度近くになるとは、想像を超えていますね。しかし、これからは想像を超えることがあたりまえになってくるかもしれません。十分注意されお過ごしください。
【午前中、プール横(南側)の草刈りを、中川先生、齊藤先生にしていただきました。とても暑い中ありがとうございました。】
【2回目】今回は60年前の夏休みのことを話します。当時は現在のような気候ではありませんでした。「今日は特に暑いなあ。」と感じた時の気温でも32度ぐらいでした。気温35度などは経験したことがありません。朝は6時に起きていました。6時半にラジオ体操があります。ラジオ体操カードに、すきまなく印鑑を押してもらうのが嬉しかったです。朝は10時まで家にいなければなりません。夏休みの宿題は何といっても「夏休みの友」でした。これをやった後、午前10時から12時まで2時間自由プールです。プールに入る時は、必ずかまぼこ板に、名前と住所を書いたのを提出しなければなりませんでした。午後1時から3時まで、2回目の自由プールがあっていました。飛び込んで深く潜りすぎ、おでこや鼻の先をプールの底でこすった記憶も何回かあります。プール中央横に、直径20㎝ぐらいの大きな穴がありました。排水溝です。大きな丸太で栓をしてあったと思います。今思うと少し怖いですね。ビート板は今のような柔らかいウレタンではありません。洗濯板のようなものです。それを筏のように組んで、その上に乗って遊んでいました。夏休み期間中1~2度、運動場に移動映画が来ていました。日が沈み暗くなると、バックネットを利用して大型スクリーンが作られます。それに映画が映し出されていました。また、夏休み期間中に1回登校日が設けてありました。期日は8月6日か9日です。「平和登校日」と称し、平和の大切さを考えたり、夏休みの様子を担任の先生に話したりしていました。廃品回収もあっていました。町内ごとにリヤカーを引いて、空き瓶、新聞紙、雑誌などを回収していました。回収したものは、体育倉庫に詰め込んでいました。漫画の本もたくさん出ていたのでそれを読んだりもしていました。あっという間に夏休みが過ぎていった思い出があります。
【3回目】学校の施設面等を紹介します。学校敷地内に「宿直室」という建物が建っていました。男性の先生方が交代で、そこに泊まられ、学校の夜の警備等をされていました。その横には「楽焼窯」がありました。その窯を使い、毎年冬になると、「楽焼大会」が実施されていました。給食室は正門を入ってすぐ左手の所にありました。当時は米飯給食はありません。すべてパン(食パンかコッペパン)食です。牛乳は、今のような紙パックではなく牛乳瓶です。運ぶのが重かったですね。ふたは紙でできていました。きりのような物を使ってあけていました。また、そのふたは、遊び道具としても使っていました。今と大きく違うのは、クジラの肉が頻繁(ひんぱん)にでてきていたということです。立田あげのように調理されていました。とてもおいしかったですよ。しかし、すじがよく歯の間にはさまりました。カレーやスパゲッティー、ぜんざいなどもよく出ていました。下記の写真は、私の運動会時の写真です。バックに左から、3・4・5・6年生校舎、宿直室、1・2年生校舎、楽焼窯、体育倉庫が映っています。