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1. 7月30日(水)

投稿日時: 07/30 学校サイト管理者

【本日午前8時25分頃、カムチャッカ半島付近を震源とする、マグニチュード8.7の地震が発生しました。津波も発生しました。被害が少ないことを祈ります。連日猛暑が続いています。7月も今日を含め残り2日間です。気象台発表によると、6月は観測史上、最も平均気温が高かったことが発表されました。7月の気温も、基準値より2.9度高くなったことを発表していました。6月、7月と2ヶ月にわたり、観測史上最高平均気温を示したことになります。もし電気がストップしたら、もし水が断水したら等、もしもの場合を考えておきたいですね。】

【朝から、工事車両が入りました。本校敷地内に、大きな貯水タンクを設置するための下準備作業だそうです。】

 

【子どもたちの学習効果をあげる手段の一つとして、「板書のくふう」があります。2年前の夏休みに、全クラスの黒板に10㎝×10㎝の方眼を、マジックで書きました。しかし、年月とともに薄れてきました。今日からまた、黒板に10㎝×10㎝の方眼を、マジックで書きはじめました。】

【7回目】今回は学校生活をはなれ、当時の家庭生活等はどういうものだったかをお話しします。我が家にテレビが来たのは昭和37、8年頃ではなかったかと思います。白黒のブラウン管テレビです。足が4本あり、その上にテレビがのっていました。テレビをみない時は、小さなテレビ用カーテンを降ろしていました。放送局はNHKとRKKの2局です。電源は押しボタン式、チャンネルはくるくる回す式のものでした。当時は1家に1台しかテレビはなかったので、好きなアニメなど、なかなかみることができませんでした。洗濯機は2層式のものでした。洗い終わったら、脱水をする所に衣服を移します。遠心力を使って脱水します。しかし、きちんと衣類がおさまっていないと、大きな音をたて、洗濯機が止まってしまうことが度々でした。電話は昭和40年代に入り、徐々に各家庭に普及してきました。それまでは、地域のお店屋さんやお米屋さんなどに電話があったので、それを借りたりしていました。通信手段としては、電報も結構活用されていましたよ。お風呂を沸かすことは大変でした。今はボタン一つでお湯がわきますが、私の家では石炭を使っていました。私の夏休みの手伝いは風呂たきです。まず灰をだし、新聞紙を燃やし、その上にそっとたきもん(小さな木片)を置きます。たきもんに火がついたら徐々に石炭を乗せていきます。晴れた日は、すぐに火がつくのですが、雨の日や夕立の後は、釜がぬれているのでなかなか火がつきませんでした。苦労しましたね。道路は今のように全てが舗装してあるわけではありません。ジャリ道やでこぼこ道が多かったです。家の玄関前には木製の牛乳入れや、1辺が60㎝~70㎝の立方体をした、コンクリート製のごみ入れがあったのを覚えています。夕方になると、自転車に乗って、豆腐やあげを売りに来られていました。私が好きだったのは、ロバがひいてくる「ロバのパン」です。途中からはロバではなく、車に変わりましたね。紙芝居屋さんも来ていました。5円か10円を払ってみていました。紙芝居屋さんの後をついて行き、帰りが遅くなって叱られたこともありました。とにかく今と違って、時間がゆっくり流れていたような感覚があります。

今から約60年前の小学校はどのようなことをおこなっていたのか、どのような環境だったのか等の話はこれで終了させていただきます。ありがとうございました。