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横島町紹介

玉名市の干拓遺産(横島町)

10月6日(金)横島町の干拓の歴史について、玉名市の文化課文化財係でまとめられているレポートの一部をを紹介します。よかったら昔の横島町の様子を絵を見ながら説明してあげてください。詳しく知りたい方は、下のPDFをダウンロードしてご覧ください。

 

※ 玉名市の干拓遺産(横島干拓)

 玉名市の干拓遺産(PDF 約3MB).pdf     クリック!

 

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まぶ

1月19日(火)横島の南側(学校周辺)は、干拓はできたものの、最初水が引かれていませんでした。そこで、石塘の近くの外平山に36mのトンネル(まぶ)を掘り、京泊から大開を通って水を引き、コメ作りができるようになりました。その後の農業の発展につながりました。その工事を行ったのが、三村章太郎という庄屋さんでした。

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池辺吉十郎

1月10日(日) 外平山の中腹に池辺吉十郎史跡公園があります。池辺吉十郎は、幕末-明治時代の武士で、西南の役では、西郷方に付き熊本隊の隊長として、千数百名の隊士を率いて戦った方です。戦いには敗れ長崎で処刑されてしまいました。生前外平に居住し農耕に従事する傍ら、私塾を開き子弟を教育し、村民の尊敬を受けたと記されています。

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孝女つやの碑

1月4日(月) 明けましておめでとうございます。本年度もどうぞよろしくお願いします。学校は今日から仕事始めです。第1号の記事として、「孝女つやの碑」についてお伝えします。私が子どもの時、父親から何度もこのお話を聞かされた覚えがあります。

碑がある場所は、栗の尾です。墓も一緒にあります。看板の説明は旧字体が使われていて、私の知識では完訳は難しいです。大まかな内容は、「つやは夫孫七とその母の3人で暮らしていました。とても貧しい暮らしで孫七は病気がちであまり働くことができずに早くなくなってしまいます。つやがその孫七と母のために尽くし、孫七が死んだ後、再婚を進められますが、それを断り、母を助け仲良く暮らしたというお話です。」すばらしい親孝行の女性として語り継がれているものです。

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石塘

12月30日(水) 石塘は加藤清正が農地を広げるために取り組んだ大工事です。その時に人柱の言い伝えも残っています。詳細は、碑文をご覧ください。

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干拓史跡(六枚戸)

1月23日(木) 今日は、3年生が、野鳥観察に出かけました。その学習と並行して、干拓の史跡である六枚戸を見学し、横島干拓の歴史についても少し学びました。横島町文化財保存顕彰会及びまちづくり委員会の沼垣様、立野様、光田様の3人が講師としてお話をしてくださいました。

 

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新九郎坂

1月5日(日) 山の上展望公園の脇から京泊の石塘へ向けて、下っている坂があります。その昔、横島が海に浮かぶ孤島だった頃の新九郎伝説が残っています。※写真の石碑に説明あり3枚目4枚目の写真は、現在の新九郎坂です。

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山の上展望公園

1月3日(金) 外平山の上には、展望公園が整備されています。1枚目が現在の展望台、2枚目は、以前の展望台(ビッグジャングルジム)です。3枚目は、前からある休憩所兼展望台です。ここには、横島町が干拓で広がっていったことが分かるミニチュアの模型が作られています。それが4枚目の写真です。2枚目3枚目4枚目の写真は、以前撮った写真です。

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経塚(史跡公園)

1月3日(金) 散歩の途中に山の上公園で撮影しました。横島町は、干拓によってできた町といってよいと思います。その歴史を是非知っておきたいですね。6年生は、玉名学で学びを深めています。

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熊野座神社(ごんげんさん)

今まで、横島の地名と由来に掲載されている16の神社を紹介してきました。これらの神社は、干拓が進むにつれ、台風の被害で苦しむ人々の心のよりどころとして建てられていったようです。最後にこれらの神社の総氏神(そううじがみ)に位置づけられている熊野座神社です。

①祭神は、伊邪那美大神(いざなみおおみかみ)、事解之男神(ことげのおのかみ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)の三柱です。(京泊)

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金比羅神社 大開住吉神社

① 金比羅神社 :祭神は、大物主の命(おおものぬしのみこと)、崇徳天皇の二柱です。

  七番開き(現在の竈地区)の唐人川堤防のそばにあります。

② 大開住吉神社:祭神は、綿津美神(わたつみ)です。大開入口西割一の切にあります。

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