徳永康起先生について
徳永康起先生を偲ぶ

 眼を閉じて トッサに 親の祈り心を 察知し得る者 これ 天下第一等の人材なり 

 日本教育史にその名を残す希代の教育者森信三先生をして、「明治以後のわが国の教育界における『100年一出』の巨人」、「超凡破格の教育者」と言わしめた人物。それが、熊本の小学校教師、徳永康起(とくなが やすき)先生でした。
 運動場に面した校舎の前に、徳永康起先生のお言葉が刻まれた石碑があります。徳永先生は35歳(昭和22年)最年少で小学校の校長に抜擢された先生ですが、七年後「校長職では直接に子どもたちの教育に関われないから」と、自ら進んで教諭となることを願い出て、教諭として再出発された先生です。その学校が、この太田郷小学校でした。
 徳永先生の子どもたちへの愛情と情熱はこのページだけでは書きつくせないものがあり、後輩としてこの太田郷小学校児童の教育にかかわる者として誇りに思います。徳永先生が亡くなられた後、先生の道友の方によって、『天意百語抄』の語録(小冊子)が出版されていますが、その言葉の中にこの石碑の一文があります。徳永先生の教えを少しでも受け継ぎ、太田郷っ子の教育に励みたいと思います。 


 今日も徳永先生の碑のまわりで太田郷小の子どもたちが元気に遊んでいます。


 昭和45年2月1日に植樹された5本のカイズカイブキ。徳永先生に教わった卒業生の方々が、この5本を植樹され、「ごぼく会」を結成されました。
 (画面中央の石碑左の写真の石碑です。)
お客様
( 2011/11/6 「学校生活」より転載)
 本日は、大変うれしいお客様がありました。
 このホームページでも紹介しています徳永康起先生に教えを受けられたお二人の方が、このホームページを見て「たいへん懐かしくうれしく思います。」とおっしゃってわざわざ学校を訪ねておいでになりました。
 吉川征一様(写真左)、植山洋一様(写真中央)のお二人です。(右は本校の山田校長です。)
 徳永先生の思い出や徳永先生が担任であった1955年に卒業された「ごぼく会」の活動のお話、5年5組、6年5組、そして、1955年卒業といった「5」に縁のある卒業生であるので、五本のカイヅカイブキを植え、「ごぼく会」と名付けられたことなどいろいろなお話を聞かせていただきました。
 昭和54年、68歳という若さで亡くなれた徳永先生の情熱を傾けられた教育がたくさんの教え子さんたちによって実を結んでいるのだということがつくづく感じられたことでした。
 吉川様、植山様本当にありがとうございました。

徳永先生のエピソード(引用)

 徳永先生に関しては、「まほろばblog」様(http://www.mahoroba-jp.net/newblog/)のblogより、以下のようなエピソード記事を引用させていただく許可をいただきましたので、感謝申し上げますとともに、ご紹介いたします


※以下引用開始

「超凡破格の教育者 徳永康起先生」

10月 20th, 2011 at 9:42

       
       
    坂田 道信 (ハガキ道伝道者)
        
     『一流たちの金言』 ~第5章 教えより~
   http://www.chichi.co.jp/book/7_news/book934.html

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徳永先生は熊本県の歴史始まって以来
30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが

「教員の仕事は教壇に立って教えることだ」

と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。

だからどの学校に行っても校長に嫌われるんですね。
自分より実力が上なものだから。

それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど
行く先々で教師たちが一番敬遠している
難しいクラスを受け持って
みんなを勉強好きに変えてしまうんです。

授業の前に児童たちが職員室へ迎えに来て
騎馬戦みたいに先生を担いで
「ワッショイ、ワッショイ」
と教室に連れて行ったというんです。

先生、早く教えてくれって。

先生は昼飯を食べない人でした。

なぜ食べないかというと、終戦直後、
昼の時間になると弁当を持ってこられない子どもたちが
さーっと教室からいなくなる。

それでひょっと校庭を見たら
その子たちが遊んでいたんです。

その時から自分もピタッと昼飯を食べるのを止めて
その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。

以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ、
晩年になっても。

これは戦前の話ですが

「明日は工作で切り出しナイフを使うから持っておいで」

と言って児童たちを帰したら、次の日の朝、

「先生、昨日買ったばかりのナイフがなくなりました」

という子が現われました。

先生はどの子が盗ったか分かるんですね。

それで全員外に出して遊ばせているうちに
盗ったと思われる子どもの机を見たら
やっぱり持ち主の名前を削り取って布に包んで入っていた。

先生はすぐに学校の裏の文房具屋に走って
同じナイフを買い、盗られた子の机の中に入れておきました。

子どもたちが教室に帰ってきた時

「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」

と言うと

「先生、ありました」

と。

そして

「むやみに人を疑うものじゃないぞ」

と言うんです。

その子は黙って涙を流して先生を見ていたといいます。

       * *

それから時代が流れ、戦時中です。

特攻隊が出陣する時、
みんなお父さん、お母さんに書くのに
たった一通、徳永先生宛の遺書があった。

もちろんナイフを盗った子です。

「先生、ありがとうございました。
 あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を
 送りたいと思うようになりました。
 明日はお国のために飛び立ってきます……」
 
 
という書き出しで始まる遺書を残すんです。

それから、こんな話もあります。

先生が熊本の山間の過疎地の教員をやられていた頃、
両親が分からない子がおったんです。

暴れ者でね、とうとう大変な悪さをやらかした時、
徳永先生は宿直の夜、

「君の精神を叩き直してやる」

と言って、その子をぎゅっと抱いて寝てやるんですよ。 

後に彼は会社経営で成功して
身寄りのない者を引き取って
立派に成長させては世の中に出していました。

「自分のいまがあるのは、小学校4年生の時に
 徳永康起先生に抱いて寝ていただいたのが始まりです。
 先生、いずこにおられましょうか」
 
 
という新聞広告を出して、40年ぶりに再会した
なんていう物語もありました。

この前もハガキ祭で教え子の横田さんという方に
思い出をお話しいただきましたが、
初めから終わりまでずっと泣いているんですよ。

定年退職をされた方だから
もう50年以上も前の思い出ですが
1時間ちょっとの間、ずーっと泣いている。

その方の感性も素晴らしいけど
やはり徳永先生の教育がすごかったんでしょう。