太田郷小学校区とは

 太田郷小学校のある校区は、東に竜峰山、南に球磨川、西に市中心部、北に八代平野を望み、農業のみならず様々な産業も活発に行われている地域です。
 九州新幹線が南北に縦断し、鹿児島本線、九州自動車道、臨港線など交通機関の発達は八代随一です。
 学校からは、すぐ近くに大型製紙工場が見え、周りには住宅も多く、朝夕の交通量も相当なものです。


 ※以下の図、写真は社会科副読本「私たちの八代市 3年生」から引用しています。
 〔太田郷小校区の形はライオンやダチョウの形によく似ていますね。皆さんの校区は何に似ていますか?〕

  下の図をクリックすると太田郷小学校周辺の地図が開きます。(googleマップ)



校区めぐり

太田郷校区めぐり

竹原神社で初詣

 1月3日に少し遅い初詣に行ってまいりました。やっぱり校区内ということで、初めに竹原神社に行ってきました。

 穏やかな気候の中、私と同様初詣の方もいらっしゃいました。お参りをしていると、宮司さんが「ちょっと待ってください、お祓いをしますから」と言ってくださり、わざわざ御幣(ごへい)でお祓いをしてくださいました。とてもアットホームな神社です。


 昨日、おとといはたくさんの初詣の方がいらっしゃったのでしょう。おみくじがたくさん結んでありました。
 今年一年、皆さんが幸せでありますように。(=^ v ^=)


 手水場(ちょうずば)で手を清めるのを忘れていました。すみません。


 祠(ほこら)の苔むした屋根を見るとこの神社の歴史が感じられます。


 このクスノキは、竹原神社のシンボルともいえるものです。推定樹齢300年と言われています。


 八代市の名木に指定されています。


 八代にはほかにもたくさんの神社があるのであといくつか行ってみたいなと思っています。
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松中信彦スポーツミュージアム

 校区たんけん第5回は「松中信彦スポーツミュージアム」です。
 新八代駅のすぐ近くにそれはあります。(立地は、太田郷校区です。)
 ここは、松中選手の寄付と八代市の協力により建てられた施設で、松中選手が実際に使った用具や写真などが展示してあります。(時期によっては特別展示やイベントなども開かれます。)
 ご存知のように松中選手はソフトバンクホークスの現役の選手で、かつては4番はもちろん、三冠王にもなった大選手です。
 現在は、故障を多く抱え、2軍生活が長くなっていますが、今日(7月12日)は久しぶりに1軍に登録されさっそく代打でヒットを打っています。
 今年40歳ですが、代陽小学校→八代第一中学校→八代第一高校(現 秀岳館高校)と根っからの八代人で、時々八代にも帰ってきてくれる松中選手にはできるだけ長く現役を続けてほしいものです。※熊本の少年野球のために松中信彦三冠王記念旗学童野球大会というものもあります。
 ちなみに、ホークスの秋山幸二監督は宮原町(現氷川町)出身で八代高校から西武ライオンズに入団し、その後ダイエーホークスにうつりました。
 私が高校2年生の時(私は野球部ではありませんが)、秋山投手(当時)が3年でした。夏の甲子園県大会決勝の前に体育館で行われた壮行会で「秋山君です。彼がうちのチームの投打の中心です」と部長先生の紹介があったことを覚えています。いわゆるエースで4番というパターンです。(これも、松中選手関連情報として・・・(^^; )

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日本一の生産量 いぐさ

 校区たんけん第4回は「藺草田」です。特産物ですが・・・。
 太田郷小学校校区は人口が多く、住宅地も広いのですが、実は昔から農業も盛んなところです。
 八代市の特産品といえば、「イグサ」です。「藺草」とも書きます。畳表の原料になる工芸作物です。
 八代市は現在全国一位の生産高を誇り、八代市千丁町には藺草の神様岩崎主馬忠久公を祀る岩崎神社もあり、祭りも行われます。
 太田郷校区の農家もかつてはかなりの数の農家で藺草を作っていたのですが、中国産の藺草の輸入の影響や農家の後継者不足等で、八代地域の他の校区と同様ずいぶん生産量や生産農家数が減ってきました。
 しかし、今でも生産していらっしゃる農家はたくさんあります。大切な八代の特産品なので、これからも大切に生産していっていただきたいと思います。
 これは、校区内の藺草の様子です。藺草はある高さ以上に草丈が伸びると倒れてしまうので、杭を打ち、網をかけて刈り取りまで倒れないようにしておきます。

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ハーモニーホール

校区たんけん第3回目は八代ハーモニーホールです。
 新町にある八代ハーモニーホールを紹介します。ここは、太田郷小学校と代陽小学校の校区の境界付近にあります。
 ハーモニーホール自体は、主にイベントやコンサートなどを行うホールで、それまで、八代にある大型イベントホールは八代厚生会館だけだったのですが、このハーモニーホールができてからは、市民は両方を利用することができるようになりました。


 このハーモニーホールは、平成になってから建てられたのですが、実は、それまではここは、「球磨川駅」と呼ばれる貨物駅でした。私の子どものころ、ここにたくさんのコンテナが置いてあったのを覚えています。さらに歴史をさかのぼれば、なんと、初代の八代駅こそがここにあったのです。明治29年から明治41年までは、ここが八代駅だったのです。現在の八代駅は2代目となります。
 さて、今は、八代駅に貨物駅としての役割を移し、駅であったことをしのばせるものはほとんどありません。ただ、歴史を示すプレートが作られ、当時走っていたSLの写真や動輪が置いてあります。
 (実は、その提供者である小澤年満先生は、私の小学校の時の担任の先生なのです。よく汽車の話をされたり、引き込み線をSLが走るのを見学に連れて行っていただいた思い出があります。)
 鉄道ファンの方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
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フリーゲージトレイン

 校区たんけん第2回目は、がらりと変わって最先端技術の紹介です。
 太田郷小校区にある新八代駅は、新幹線側と在来線側に分かれているのですが、在来線側を北に進むと、見慣れない新しい線路が最近できています。
 しかも、物々しいくらいフェンスで囲ってあるのです。鉄道に詳しい私の息子によれば、あれはGCT(Gauge Convertible Train 軌間可変電車)別名フリーゲージトレインと言って車輪の幅を自由に変えて走ることのできる電車なのだそうです。
 そのための試験コースができているのです。しかも、テスト車両は極めて珍しいもので愛好者の間でも評判になっているのだとか。おまけに、いつテストコースに出されるかもわからず、見られるととても運がいいということだそうです。
 運よく、その初日に息子が写真を撮ることができましたので紹介します。
(5月18日 はじめテスト車両が入ってきたときの写真です。)



 奥のほうが新八代駅側です。
 独特のモーター音を鳴らしながらテストコースに入ってきます。












 フリーゲージトレインの先頭車両です。見たこともない形状で、まるで戦闘機のようです。
 デザインも独特で、カッコイイ!














 先頭車両の側面に大きく「FGT(Free Gauge Train)」と描かれています。










 息子によれば、これは、フリーゲージトレインが新幹線として利用される場合に備えてテストをしているとのこと。こんな新幹線に将来のれるかもしれませんね。
 これから何年テストが続くかわかりません。また、毎日走るわけではなく、いつテスト走行があるのかさえ分かりません。太田郷の子どもたちも運が良ければ見られるかも…。
そして、ここも太田郷の名所になるのかもしれません。
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竹原神社

 校区たんけん第1回目は、「竹原神社」を紹介します。太田郷小学校の近くにある第二中学校の隣にあります。
 だから、太田郷小の子どもたちはほとんど知っています。もちろん、行ったことがない子もいますが…。

 詳しい由緒については、下のほうに熊本県のホームページから引用した文がありますので、読んでいただきたいのですが、正月の初もうでや秋祭り、稚児土俵入りなど地域の皆さんにとっては生活の一部といってもいいくらい親しまれ、「竹原さん」とも呼ばれています。
 八代地域は八代神社に代表されるように歴史的に妙見信仰が深く根付いたところであると同時に、八代神社を「妙見さん」、竹原神社を「竹原さん」と呼ぶように、奉るだけでなく親しみをもって参拝してきたところが特徴です。

 3年生の社会科で「校区のたんけん」をしますが、必ず訪れるところです。

 


右側に写っている屋根の下が土俵です。

「竹原神社について」・・・以下熊本県ホームページ『地域発 ふるさとの自然と文化』より引用しています。

竹原神社

  竹原神社は、文治2年(1186年)、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の時代に建てられましたが、天正年間(1573~1591年)に宇土城主である小西行長の命令により焼き払われてしまいました。その後、寛文8年(1668年)に藩主細川綱利公の命令により再建され、現在に至ります。境内には、土俵(どひょう)があり、毎年10月19日の祭りでは、奉納相撲(ほうのうずもう)や稚児土俵入り(ちごどひょういり)が行われ、多くの人でにぎわいます。

竹原神社の由来

  現在の竹原神社近辺は、1200~1300年前『竹原の津』と呼ばれていました。天武天皇(てんむてんのう)の時代(680年)、当時は港であったと考えられるこの地に、中国から妙見神(みょうけんしん)が亀蛇(通称ガメ)にのって渡来し、3年間鎮座(ちんざ)したと伝えられています。その由来により、この地に妙見神を奉(まつ)り、竹原妙見宮と呼ばれました。文治2年(1186年)、後鳥羽天皇の時代に現在の宮地妙見宮が建てられたのに続いて、竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。そして、明治元年(1868年)に神仏分離令が出されたため、明治4年(1871年)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)となりました。
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