岡原の歴史
第3回 黒原山と水銀朱
古代の中国では水銀は不老不死の薬と考えられてとても貴重なものでした。
日本では水銀が採れる「水銀鉱床群」と呼ばれる場所は北海道をのぞくとわずか四カ所しかありません。
奈良地方にある「大和水銀鉱床群」 徳島県にある「阿波水銀鉱床群」 長崎県にある「九州西部水銀鉱床群」
そして九州中央山地や黒原山などを含む「九州南部水銀鉱床群」です。
水銀鉱床群の中から採れる「水銀朱」と呼ばれる赤い鉱物は「丹(に)」や「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれ、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていました。
その「丹(に)」は黒原山の裏側にあたる多良木町の槻木地区でも採取する事ができます。
槻木地区には水銀や丹に関わる神様をお祭りの神社が建立されています。
3世紀末(280年~289年の間)に古代中国で書かれたいわゆる魏志倭人伝の邪馬台国、倭国の記述に「其山 丹有」(そのやま にあり)と書かれています。「その山には丹(水銀朱)がある」という意味です。
全国でも水銀朱が採れる場所はわずかであり、その中の一つに黒原山が含まれます。
貴重な鉱物が存在する黒原山はふるさと岡原の誇りです。
黒原山と同じあさぎり町内の才園古墳群では全国でもわずか3枚しか出土していない黄金に輝く鏡が見つかりました。
才園古墳群近くの本目遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀〜4世紀)の集落・墓跡の複合遺跡で発掘調査では古代中国で作られた破鏡(方格規矩鏡)などの貴重な遺物が出土しています。
★出土した破鏡(方格規矩鏡)とは、3世紀頃(200年代)、中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作された
方格規矩神獣鏡で穿孔されていてペンダントとして使用されていました。
古代の中国と球磨・人吉の人たちが交流していた証です。
魏志倭人伝に書かれた「その山」とは日本国内のどこの山なのかは未だわかっていませんが「岡原小学校」のみなさんは「黒原山には丹(水銀朱)がある」という事を覚えておいてください。
もしかしたら・・・黒原山は・・・
古代のロマンですね。
第2回 稲積妙見神社 岡原小学校創立の地
岡原小学校の創立時の名前は府本小学校(ふもと小学校)
明治7年4月 宮麓地区に創立されました。
記録では、府内稲積神社拝殿に附設草葺平屋37坪 とあります。
稲積妙見神社とは
元禄12年(1699年)に、当時の青井阿蘇神社の大宮司であられた青井惟董(おあい これただ)という方が人吉球磨地方の神社について書かれた麻郡神社私考(まぐんじんじゃしこう)という本には
『八代の八代神社(八代妙見神社)と同じ神様をお祀りする神社であり
人吉球磨地方で初めての妙見神社である』と書かれています。
御祭神
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
『古事記』では神々の中で最初に登場する神であり、日本神話における創造神
国常立尊 (クニノトコタチ)
『日本書紀』においては初めての神とされる
稲積妙見神社について麻郡神社私考ではさらに
明應5年(1496年)※室町時代 相良氏第12代当主 相良 為続公とご子息相良 長輔公(のちに改名して相良長毎(ながつね)相良氏第13代当主)が稲積妙見神社で祈願をなさったことも書かれています。
人吉・球磨地方で初めての妙見神社であった稲積妙見神社は、相良のお殿様も崇拝なさるとても大切な神社であったことがわかります。
岡原の各地にご鎮座であった沢山の神社と同様に稲積妙見神社は明治43年に岡原霧島神社に合祀(複数の神社の神様を一つの神社でお祭りすること)となり、今はありません。
相良のお殿様、さらに球磨・人吉地方の人々に大切にまもられてきた稲積妙見神社の拝殿に附設されて創立された府本小学校が今年で創立151周年となった岡原小学校と続いてきたのです。
稲積妙見神社 (明治初頭の絵図)
平安時代 1200年以上前に建てられた岡原の神社
第一回目は
1200年以上前に建てられた岡原の神社というお話です。
今から1200年以上も前の806年。
豊後(ぶんご)国(今の大分県)の大神(おおがの) 惟基(これもと)という偉い武将が、人吉の地に国宝「青井阿蘇神社」を創建しました。 ※創建(そうけん) ”初めて建てること”
「青井阿蘇神社」の創建と同じ806年。
大神惟基(おおがの これもと)は黒原山の麓、今の宮原観音堂(みやはらかんのんどう)の近くに中嶋霧島(なかしまきりしま)神社、今の宮麓切畑(きりはた)地区に切畑(きりはた)神社を創建しました。
さらに大神惟基(おおがの これもと)は岡本に大炊霧島(おおいきりしま)神社を創建しました。
1200年以上も前に、この岡原にはとてもりっぱな神社が3社も創建されたのです。
大神惟基(おおがの これもと)が創建した神社は人吉・球磨 地方には4社。
そのうちの3社が、この岡原に建てられたということになります。
宮崎県西臼杵郡高千穂町(にしうすきぐんたかちほちょう)にある有名な天岩戸(あまのいわと)神社は、伝えによると、『812年に大神惟基(おおがの これもと)によって再興された』と言われています。
※再興 さいこう ふたたび盛んにすること
これは、岡原の地に3社の神社が建てられてから6年後の事になります。
岡原に神社を建てる事が先に行われた・・ということですね。
平安時代の岡原にはそれはそれは素晴らしい風景が広がっていたに違いありません。
その後、1000年以上もの間、岡原の神社は青井阿蘇神社と同じく、人吉・球磨の人々の心のよりどころとして大切に守られてきました。
元禄12年(1699年)第51代青井阿蘇神社大宮司 青井 惟董(あおい これただ)が
人吉・球磨地方の250余社の全神社を調査考証し編纂(へんさん)した麻郡神社私考(まぐんじんじゃしこう)に書かれた中嶋霧島神社の記録では
①永享4年(1431年)相良氏の第9代当主(お殿様)相良前続(さがら さきつぐ)公の願いによりご神殿が修造されたこと。
②天文年中(1533年~1555年)に相良氏の第17代当主(お殿様)相良晴広(さがら はるひろ)公が本殿を改造されたこと。
等が書かれており、いかに大切な神社であったのかが良くわかります。
明治43年、岡原地区に建てられていた、多くの神社は岡原霧島(おかはるきりしま)神社に合祀(ごうし)となり中嶋霧島(なかしまきりしま)神社も切畑(きりはた)神社も大炊霧島(おおいきりしま)神社も今はもうありません。
※合祀(ごうし) 複数の神社の神様を一つの神社でお祭りにすること
中嶋霧島神社 明治初頭の絵図
切畑神社 明治初頭の絵図
岡原霧島神社 明治43年の記念式典での写真
最後に なぜ?大神惟基(おおがのこれもと)は岡原の地に神社を創建されたのか・・?
記録では
大同元年(806年)大神惟基(おおがのこれもと) 霊夢による御神託により草創
とありました。
霊夢とは・・・
神仏やそのお告げが現れる不思議な夢。
御神託とは・・・
神の意を伺う事。また、その時伝えられた言葉。
平安時代の岡原は豊後国(大分県)の偉い武将をも魅了する
すばらしい場所であったことは間違いないのでしょう
「岡原小の歴史」の部屋を開設しました!~はじめに~
あさぎり町岡原とは
2003年4月1日 に球磨郡免田町・上村・岡原村・須恵村・深田村の5町村が新設合併し、あさぎり町が発足しました。
旧岡原村の名前の由来
明治22年(1889年)4月1日の町村制施行に伴い、岡許村と宮原村が合併した際に両村の名を一字ずつとって『岡原村(おかはるむら)』となりました。
岡原は名峰黒原山の麓に広がる自然豊かな土地であり、昭和初期には縄文時代の遺跡や弥生時代の遺跡、古墳時代の遺跡も発掘された歴史深い土地でもあります。
岡原の名峰 黒原山 中世 麓には肥後宮原銀山が採掘されていました。
妙見野自然公園から見た 岡原
古代の条里制の跡も名を残し、平安時代には数多くの神社仏閣が建立されました。
子どもたちがふるさとの歴史を知ることで、ふるさとを愛し誇りを持って心豊かに成長されることを願って、岡原の歴史コーナーを始めさせて頂きます。