校区の概要

 本校区は、熊本市より南西方向の宇土半島南側に位置している。もともと本校区は明治22(1889)年4月、町村制の施行で発足した宇土郡郡浦村及び大岳村である。その後昭和30年に宇土郡の四ヶ町村(旧三角町、戸馳村、郡浦村、大岳村)が合併して宇土郡三角町の一部となった。さらに平成17年1月の五町合併(宇土郡三角町・不知火町、下益城郡松橋町・小川町・豊野町)による市制施行で宇城市が成立し、その三角町となっている。
 本校は、平成15年3月31日をもって閉校した「三角町立郡浦(こうのうら)小学校」並びに「三角町立大岳(おおたけ)小学校」の2校が統合され、同年4月1日に新生「三角町立青海小学校」(校舎は平成14年3月31日に閉校した旧「三角町立青海中学校」の施設を利用)として誕生した。その後、平成17年1月15日の市制施行により「宇城市立青海小学校」となった。 
 本校の校区は、旧郡浦小校区(西側)と旧大岳小校区(東側)の2校区からなり、西は三角小校区、東は不知火小校区、北は三角小校区及び宇土市網田小校区と接し、南は不知火海(八代海)に面している。旧大岳小校区の児童は令和5年3月末で開校以来20年間続いた路線バスでの通学を終了し、令和5年4月からスクールバス通学に移行した。
 大岳山(478m)から南側に面した緩やかな斜面には、温暖な気候のため、昭和30年代までサトウキビの栽培がさかんであった。その後は柑橘類を主とした果樹栽培が行われ、現在に至っているが、今ではビニルハウス栽培がなされ、イチゴやミニトマト、ミカン、ビワ、マンゴーなどのハウス栽培が増えている。 
 また、かつては漁業もさかんであり、近隣の郡浦漁港では近年まで小型定置網や刺し網漁で水揚げされた魚介類による「郡浦浜市」が開かれていた。しかし高齢化や過疎化等により、漁業に携わる家庭は激減している。

 令和6年度のPTA数は55戸である(5月1日現在)。このうち、約8割が3世代で暮らしており、核家族が比較的少ない。また、農家が半数で、ほとんどが共働きである。

 旧大岳小学校から昭和60年以来引き継がれてきたサトウキビ栽培及び黒砂糖づくりは、本校の特色であり、郷土を愛し、豊かな心を育む教育活動として、保護者や地域住民の支援を受けながら継続している。地域を挙げた長年の取組が評価され、平成29年1月には「第15回トム・ソーヤースクール企画コンテスト」にて最優秀の「文部科学大臣賞」を受賞した。

本校の沿革
校名の由来

 旧藩政時代、細川家は、領内を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、各手永には「会所」と呼ばれる役所を置いた、この地には「郡浦手永会所」が置かれており、郡浦は名実ともに宇土半島の中心地であった。幕末郷内の青年達は「青海隊」を組織して洋式兵法の訓練を受け、皇居の警備に当たったこともある。 
 明治30年10月、「青海高等小学校」が会所跡に設立された。「青海校」と呼ばれ、質実剛健、礼譲、勤勉を経営の柱として幾多の人材を世に送り、由緒と伝統ある学校としての誇りを持ち、親しまれてきた。それを示す大きな記念碑が、現在の青海保育園内に建立されている。
 時は流れて昭和22年4月、この地に新制中学が設立されるに当たり、この伝統を子弟の教育に生かすために、この親愛の呼称を冠した「青海中学校」を校名とした。そこには郷土の誇りを永く持ち続けようという願いが込められていた。
 平成14年、青海中学校は三角中学校と統合し、「青海」の名は一旦消えることになった。しかし、その1年後、郡浦・大岳両校の統合で青海中学校跡に新設され、伝統ある「青海」の名を冠する本校は、この精神を未来へと引き継ぐものである。

 また、本校の校章は、中学校の痕跡を残したいという地元の強い要望により、「青海中学校」の校章がモデルとなっている。                        

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 背景の形は青海の「青」の字をデザイン化したものである。下部は「海」を表し、子供が元気いっぱいやる気を起こしている姿をイメージしている。