学校の沿革

Ⅰ 本校の概要及び学校沿革の大要

 

1 本校の概要

 

(1)学校の創設

 

           本校は、文久2年、庄屋木山惟一氏が大矢野の儒学者値賀盛純(竹添進一郎)先生を招き、明徳寺境内に「集義館」を興したことに源を発する。

 

   集義館は「飛ぶや集義の星ふりて、永久に伝統ゆるぎなき」と校歌に歌われているように、多くの優秀な塾生を世に送り出し、天草の教育振興に大きな役割を果たしてきた。明治5年に学制が発布されると値賀盛純先生は直ちに小学校創設に着手され、明治8年8月には集義館を解散し、明徳寺境内に本戸馬場・町山口両村組合立天草小学校を開校された。天草で初めての小学校教育が開始されたのである。  

 

            明治8年、本戸馬場・町山口両村組合立天草小学校はそれぞれ分離し、本校は、現在地の浜崎町に校舎を移転し、校名を本戸小学校と改めた。その後教育制度の改正や町村合併により校名が変更されたが、昭和29年本渡市制施行により本渡市立本渡北小学校となった。一方の町山口村の小学校は本渡南小学校となった。

 

            昭和40年代に入り、校舎やプールが建築・増築され、昭和53年から56年に現在の校舎全体の施設が完成した。プールは老朽化したため、平成に入り新築された。

 

平成18年3月27日、2市8町が合併し天草市が誕生したことにより天草市立本渡北小学校となり現在に至っている。

 

(2) 校区の状況

 

            校区の産業として、創設当時は農業が主であったが、経済構造の急激な変動や幹線道路の開通等もあり、年とともに農業は減少し、保護者の職業も多岐にわたっている。校区には公的機関や店舗が増え、加えて宅地の開発により住宅やアパート等もかなり増えてきており、今では天草市のほぼ中心的な位置にある。校区を取り巻く環境から、交通事故防止や児童の安全確保等安全面での特段の配慮が必要である。 

 

            本校区は、古い歴史と文化をもち、そこで生活を営んだ人々の誇りを感じさせる地域であり、保護者や地域住民の教育への関心は非常に高い。PTA活動も盛んで学校教育を支えており、地域あげての後援会も組織されている。多くの面で学校に対して協力的であるが、家庭の教育力に関して二極化の傾向も見られ課題と捉えている。

 

            学校の取組や児童の活躍等の情報発信や啓発等を通して課題の解決を図るとともに協力の輪を広げていく必要がある。

 

(3) 児童の実態

 

      児童数は天草管内で最多の大規模小学校となっている。

 

   児童は明るく素直で思いやりがあり、友だちと仲良く交流ができ、下学年の世話もよくできる。また、活動的で休み時間や放課後には運動場いっぱいに広がり、遊んだり運動したりしている。その反面、整理整頓や物を大切にすること、落ち着いた節度ある生活態度の面で課題も見られる。

 

            学力面では、諸調査・検査結果からすると、平均値はいずれも県や全国の平均を上回る充実した結果を残しているが、個々の児童を見ると学習内容の確実な定着、思考力、判断力、表現力の育成、学習姿勢や学習意欲等の面で課題があり、個に応じた指導の充実を図る必要がある。個々の児童の学力向上とともに、高め合う学習集団として学習の質を高めるためのなお一層の指導が必要である。

 

            部活動では、吹奏楽部があり、各種コンクールで県を代表する優秀な成績を収めている。また、運動部活動は社会体育へ移行し、本渡北クラブとして、ソフトボール、ハンドボール、ソフトテニス、陸上競技、ミニバスケットボールの各活動が行われている。