あ、どうも、お久しぶりです。
先日、たまたま6年2組保護者の運動会感想を拝見しました。コロナ禍でも、対策をしながら開催した学校側への感謝のお手紙ばかりでした。聖介先生と同じくらい感激しましたので、久しぶりに筆を執ろうと思います。
ただ、今回は運動会の様子でも児童や職員の頑張りでもありません。視点を変え、気持ちを軌道修正して、『忙』しいを理由に心を亡くしかけている方、そして未来の日本を担う人たちに向けてです。
きっかけは1冊の本との出合いでした。(永松先生は私の師匠であり、メンターでもあります。)
かつて愛する人を守るために死んでいった若者たちがいました。「特攻隊」とよばれた彼らが、人生最後の数日を過ごし、そして飛び立っていった場所、鹿児島・知覧。
現地に着くなり涙が止まりませんでした。
手紙や遺書には、お母さんへ宛てたものが数多く残っていました。いつかこのHPで伝えたくて、人目もはばからずメモをしました。
「只今より征きます。日本男子の本懐であります」
「泣クナ、決シテ泣イテ下サルナ」
「隊長としての重任必ず立派に果たします。御体御大切に」
「慈しみ育てて下されし母、有難い母、尊い母、今こそ大聲で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと」
「母上様に御目にかかつて甘えたかつたですが」
「思えば幼き頃より人一倍腕白で母上様を困らせたる事、父上様に叱られて泣いて居ると優しく慰めて下さつた母上様」
「今更言ひのこすことも有りません」
また、年長の子どもに宛てた手紙もありました。当時はひらがなよりも先にカタカナを学びます。我が子が読めるように綴られていたのは、
「オトウサンニマケナイヒトニナツテ、オトウサンノカタキヲウツテクダサイ」
覚悟を決めるとはどういうことか、考えさせられますね。
特攻の母と呼ばれ、隊員の面倒をみられていた鳥浜トメさんが営んでいた『富屋食堂』にもお邪魔しました。
こちらでも、遺品や写真に涙が溢れて仕方ありませんでした。
出撃。それは永遠の決別を意味していました。離陸した特攻機は急降下し、翼を3回振って別れを告げ、開聞岳の彼方へと消えていきました。彼らは還ってきませんでした。(戻ろうものなら冷たい目で見られたそうです。)
一つしかない命を投げ捨てて散っていった若者達のこと。何気なく過ごしているこの一瞬も当たり前ではないこと。私たちは決して忘れてはなりません。
最後までご覧いただきありがとうございました。
※先代からの悲願、砂利駐車場舗装工事の測量がいよいよ始まりました。大脇為久元校長先生、中野浩幸前校長先生、見られていますか。願えば叶うものですね。2人の大御所をはじめ、皆さんの努力の賜物です。
先日の運動会では、PTAさんに購入していただいた赤コーン20個も活躍していました。気づいた人は、ナイスです。