日誌

学校の歴史

運動場の6本の木の意味は?

運動場の遊具の後方に一列に植えられている6本の木には実は意味がある、と先日聞きました。時期は定かではありませんが、南小校区の「6つの地区」を象徴したもので、皆が協力してやっていけるようにとの願いが込められているとのこと。(なるほど・・・と思いましたが、まだ記録を見つけることができていません。どなたか御存知でしたら教えてください。それにしても、学校というのは地域の歴史が集約されている場所だとつくづく思います。)6本の木も定期的にお手入れが必要ですが、11月3日(水)に1回目の伐採をしました。(6日(土)にも切ります)ずいぶんとすっきりしました。

学校の歴史のお話 ~ 創立百周年記念誌(昭和50年)から~

調べ物があり、学校の歴史に関する資料をいろいろと見ていた時のことです。昭和50年11月23日に出された「創立百周年」の記念誌に思わず引き込まれてしまいました。本校の歴史をたどっていくと、もともとは明治前から辛川と曲手にあった寺子屋が始まりです。その後、明治17年に曲手、辛川、戸次の各学校が合併し、白水尋常小学校となり、昭和30年の町村合併により、菊陽町立菊陽南小学校としてスタートを切ることになりました。記念誌を読み進めていくと、当時の先生がこんな文を寄せておられました。「(前略、原文どおり)来賓祝辞のたくさんあった中に、どの人も昔の本校の姿を話されていたが、一様に施設の恵まれなかったことが私の胸にこたえた。特に、講堂の裏部屋が保健室だった話、北校舎の建築の時、当時の生徒であった人が一日に三回も白川からくり石を運んだ話には、さぞ当時本校の在校生は辛い思いをしただろうと瞼が熱くなってきた。学校沿革史にも、昭和三十年、上下水道完成。学校に給水施設とあるのでつい最近まで、生徒は飲み水や掃除バケツに汲み上げポンプをギッチャンギッチャンいわせてくんでいたのであろう。(後略)」今では想像もつかないことです。他にも当時の児童や卒業生など、多くの方々が文を寄せておられました。胸が温かくなると同時に、実に多くの方々が南小にご自身の歴史を刻んで巣立って行かれたのだと感じました。また、壮大な歴史の流れの中にいるのだな・・・と改めて思います。日々のことにだけ目を向けていると実感しにくいことではありますが、本校に御縁があったことを再度ありがたく思う次第です。鼻ぐり井手の勉強もそうですが、身近な歴史を知り、自分が今ここにいることの偶然と奇跡に感謝できるといいなと感じています。

 

 

学校の水くみ場?

校舎が今の校舎より北側にあった時・・・・・そう、今の第2グランドに校舎があった時のことです。

水道もなく、井戸もなかった時のことです。

県道から馬場楠井手に降りて、水をくんでいたようです。
だれが、いつ、何のためにくんでいたのでしょうか。


実は、役場から電話がありました。
「馬場楠井手の改修工事をしていて、コンクリートのかたまりが出てきた。」
「昔水くみをしていた時の足場?という話です。」

足場が悪い、山の斜面を水んで上り下りするのは大変だったろうなあ・・・・・
ひょっとして、足を滑らせて、井手に落ちた人もいるのかなあ・・・
だからこんな大きな立派な水くみ場・足場がつくられたのかなあ・・・

など、いろいろ考えさせられました。
いつ頃作られた物で、いつ頃まで使われていたのでしょうか?
馬場楠井手ができる前は、白川まで水くみに行っていたのでしょうか?

いろいろと思いをはせてしまいました。
何か情報がありましたら、お知らせください。

改修工事に伴い、撤去になります。