校区めぐり

竹原神社

 校区たんけん第1回目は、「竹原神社」を紹介します。太田郷小学校の近くにある第二中学校の隣にあります。
 だから、太田郷小の子どもたちはほとんど知っています。もちろん、行ったことがない子もいますが…。

 詳しい由緒については、下のほうに熊本県のホームページから引用した文がありますので、読んでいただきたいのですが、正月の初もうでや秋祭り、稚児土俵入りなど地域の皆さんにとっては生活の一部といってもいいくらい親しまれ、「竹原さん」とも呼ばれています。
 八代地域は八代神社に代表されるように歴史的に妙見信仰が深く根付いたところであると同時に、八代神社を「妙見さん」、竹原神社を「竹原さん」と呼ぶように、奉るだけでなく親しみをもって参拝してきたところが特徴です。

 3年生の社会科で「校区のたんけん」をしますが、必ず訪れるところです。

 


右側に写っている屋根の下が土俵です。

「竹原神社について」・・・以下熊本県ホームページ『地域発 ふるさとの自然と文化』より引用しています。

竹原神社

  竹原神社は、文治2年(1186年)、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の時代に建てられましたが、天正年間(1573~1591年)に宇土城主である小西行長の命令により焼き払われてしまいました。その後、寛文8年(1668年)に藩主細川綱利公の命令により再建され、現在に至ります。境内には、土俵(どひょう)があり、毎年10月19日の祭りでは、奉納相撲(ほうのうずもう)や稚児土俵入り(ちごどひょういり)が行われ、多くの人でにぎわいます。

竹原神社の由来

  現在の竹原神社近辺は、1200~1300年前『竹原の津』と呼ばれていました。天武天皇(てんむてんのう)の時代(680年)、当時は港であったと考えられるこの地に、中国から妙見神(みょうけんしん)が亀蛇(通称ガメ)にのって渡来し、3年間鎮座(ちんざ)したと伝えられています。その由来により、この地に妙見神を奉(まつ)り、竹原妙見宮と呼ばれました。文治2年(1186年)、後鳥羽天皇の時代に現在の宮地妙見宮が建てられたのに続いて、竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。そして、明治元年(1868年)に神仏分離令が出されたため、明治4年(1871年)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)となりました。