渡小学校の歴史

昔の渡小

渡小学校149年の歴史にありがとう

渡小学校149年の歴史にありがとう

 球磨村立渡小学校 校長 東 篤哉

 令和2年7月豪雨からの復興、そして、閉校を迎える学校を預かる校長としてこの2年間感じたことは、様々な方々に支えていただき今があるというものでした。

 赴任時、仮設校舎内には、全国から送られてきた励ましのメッセージが掲げられていました。また、多くの支援物資・支援金が届き、子供たちを元気づけようと様々な機関・団体から支援のお申し出をいただきました。大きく、そして温かい力で支えられているという安心感の下で教育活動を進めることができました。

 保護者の皆様にも大きな支援をいただきました。槻木前会長、白石会長はじめ役員の皆様には、無理な相談にも乗っていただきました。復興イルミネーションの設置や校舎解体セレモニーは、保護者の皆様のお力なしでは実現しえないものでした。

 地域の皆様にも、登下校の見守りをはじめ、ゲストティーチャー等でいつも子供たちを支えていただきました。学校運営協議会の皆様には、学校の課題について学校とは異なる視点から多くの助言をいただき、解決に向けて一緒に取組を進めていただきました。閉校にあたり、卒業生・地域の皆様には多額のご寄付もいただきました。閉校記念式典を渡小学校の運動場で開催できたのも皆様のおかげです。

 上野会長をはじめとした閉校実行委員会の皆様にも、大きな力をいただきました。多くの会議、膨大な作業にもかかわらず、「地域の学校だから」と笑顔で閉校事業をリードいただきました。閉校記念誌の作成にあたっては、水害により学校に残っている資料はほぼない状態からのスタートでしたが、委員会の皆様の声かけのおかげで、寄せられた写真は1,100枚、当時の思い出を記した文も70点を超えました。渡小学校の歴史を語り継ぐ貴重な資料となり、地域の皆様の渡小学校を思う気持ちを改めて感じたところです。

 子供たち及び職員にも感謝したいと思います。水害からこの4年あまりは、渡小学校の歴史の中でも、苦しく困難な時期であったことは間違いありません。学校だけでなく、多くの家庭も被災し、つらい思いをした子も多かったと思います。しかし、そんな中でも明るく学校生活を送る子供たちの姿に逆に元気をもらう毎日でした。職員も子供たちに寄り添い、粘り強く指導を続けてくれました。そんな子供たち、職員を心から誇りに思います。

 地域と共にある学校として、これまで46人の校長及び多くの職員が、地域の皆様の支援を得て子供たちと共に伝統を繋いできました。その学校のアンカーとしてゴールテープを切ることができることを、寂しさの一方で大きな喜びとして感じています。これまで5,358人の卒業生を世に送り出してきた我が母校。形としてはなくなってしまいますが、これからもずっと皆の心の中に残り続けると思います。

 4月、新たな歴史の始まりとなる球磨清流学園が開校となります。「後輩」である子供たちが、将来への夢をもち、夢の実現に向かって力強く歩んでいくことを心から願い、これからも応援を続けていきます。

 最後になりましたが、物心両面において大きなご支援をいただきました松谷村長様はじめ村当局、教育委員会の皆様に厚くお礼申し上げます。

 渡小学校149年の歴史にありがとう。

0

ある日の出来事

 渡東小学校昭和34年度卒業の俊治さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

ある日の出来事

 渡東小学校昭和34年度卒 俊治

 入学当時は体が弱く、学校を休むこともしばしばあった。我が家から校庭で遊ぶみんなの姿をぼんやりと眺めていたこともあり、低学年の思い出はあまりない。高学年になり体力がついたのか少しばかり活発に過ごせるようになった。

 そんなある日事件は起きた。 下校時の挨拶を待つ時間になり机に座っていた時のこと、少し乱暴な男の子が、雑納(肩掛けのカバン) で私の背中から後頭部を打ち付けた。「やめてくれ」と言ったがやめない、あまりにも執拗で我慢ならず、机の蓋で(当時はまだ蓋つきの机) 振り向きざま頭を一撃した。突然の反撃に相手も驚いたことだろう。大した傷ではなかったが、保健室で手当てをしてもらいその場は収まった。先生から叱られた記憶もないが、その後、「いじめ」はなくなった。

 勉強した記憶はないが、我が家の庭同然の校庭、講堂前のこんもりとした小さな「森」の中、奉安殿跡地周辺のブランコ、滑り台、鉄棒でよく遊んだものだ。

0

渡小学校の閉校にあたって

渡小学校の閉校にあたって

 令和5年度PTA会長 白石 将司

 渡小学校は、令和6年4月に義務教育学校「球磨清流学園」の開校に合わせて、149年の歴史に幕を下ろします。この間、多く子ども達が通い、先生方との思い出を作り、そして、地域の教育文化の中心となってきました。

 私は、渡小学校の閉校の年にPTA会長をさせていただき、渡地域との縁を深く感じています。私自身、球磨村出身ではありませんが、母も妻も渡地域出身であり、職場も渡です。球磨村に居住し8年目となり、家族共々、地域の方々には暖かく接していただき感謝しております。

 令和2年7月豪雨災害により球磨村全体が甚大な被害を受けました、渡小学校も一階部分が浸水し解体を余儀なくされ、現在は、球磨中学校敷地内のプレハブでの学校生活となっています。子ども達もたくさんの友達が転校する事となりました。以前の渡小学校に戻ることはありませんが、今後の子ども達のため、地域と教育文化のためにも今できることをひとつひとつ行っていくことが大事であると思います。新校舎についても必要なことです。球磨清流学園は、既存施設を活用して開校となっていますが、今回の災害があったからこそ、まずは避難が容易であり通学路の確保ができる場所への新校舎の建設を期待しています。

 コロナウィルス感染症の流行や令和2年豪雨災害とPTA活動が困難は時期が続きましたが、今後は球磨清流学園として、保護者と先生方、そして地域の方々と協力連携し、子ども達の教育効果を上げていけるよう、PTA活動を行って参ります。

 最後になりますが、これまで渡小学校を支えていただいた全ての方々に心から感謝を申し上げますと共に、球磨清流学園の子ども達へのご支援とPTA活動へのご協力をお願いいたしまして閉校にあたってのご挨拶とさせていただきます。

0

渡小学校区の家庭、地域、学校の絆

 令和2・3年度校長の犬童裕美さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校区の家庭、地域、学校の絆

 第46代(令和2・3年度)校長犬童 裕美

 私は、令和2、3年度の2年間、渡小学校に勤務させていただきました。渡小学校は、校長として初めて勤務した学校ですので、特に忘れることのできない学校です。赴任した年の7月に豪雨が発生しました。

 渡小学校では、毎年、家庭、地域、学校等が協力し、校内の除草作業が行われてきました。令和2年度は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、4月から2か月休校した後、6月に学校を再開しました。6月28日に保護者、学校運営協議会、老人会、職員との合同で除草作業を行い、学校の環境が整備されました。そして、7月3日に授業参観を行い、保護者の方に子供たちが整った環境の中で学習している姿を見ていただきました。その翌日の7月4日に水害が発生しました。整備された校内の環境は、見る影もなくなりました。

 しかし、その後、PTA主催で災害清掃を行い、地域の方、村内外のボランティア団体との協働で、流木等を片付けることができました。清掃後の花壇には地域の方が花を植えてくださいました。また、地域学校協働本部と老人会の主催により、復旧作業が終わった運動場で復興グランドゴルフが行われました。この復興グランドゴルフには、家庭や学校からも呼びかけたことで多くの参加者があり、渡小学校に笑顔があふれました。

 PTAは、全体行事として「絆アルバム」(子供、保護者、職員、地域の方の写真が並んでいます。)を作成し、渡小学校運動場にイルミネーション設置を行いました。どちらも家庭、地域、学校が一体となった取組でした。このような取組を通して、2年の間に、少しずつ復興していきました。 

 渡小学校区は、家庭、地域、学校の絆が強いところであることを実感しました。水害後はこの絆で前に進み、さらに絆が強くなったように思いました。復興には、この家庭、地域、学校の絆が大きく影響していたことに、心から感謝しています。

0

平成23年度の渡小

 平成23年度の渡小です。

 校長は松田晃二さん、教頭は大倉幸代さん。児童数は105人でした。

1年生

 

2年生

 

3年生

 

4年生

 

5年生

 

6年生 

 

 主な行事は以下のようなものでした。

 4月11日  入学式

 4月15日  家庭訪問

 5月9日   緑の少年団結団式

 6月9日   球磨村連合小学校修学旅行

 7月30日  6年キャンプ(ビワキャンプ場)

 8月10日  山の子海の子交流会イン球磨

10月22日  下球磨ソフトボール大会(優勝)

10月26日  5年生集団宿泊教室(あしきた青少年の家)

11月11日  犬童球渓顕彰音楽祭

12月14日  球磨村小学生持久走大会

 1月15日  PTA全体学年行事(どんどや)

 3月9日   送別遠足

 3月23日  卒業式

 

0

ある日の出来事

 昭和34年度卒業の俊治さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

ある日の出来事

渡東小学校昭和34年度卒 小川 俊治

 入学当時は体が弱く、学校を休むこともしばしばあった。我が家から校庭で遊ぶみんなの姿をぼんやりと眺めていたこともあり、低学年の思い出はあまりない。高学年になり体力がついたのか少しばかり活発に過ごせるようになった。

 そんなある日事件は起きた。 下校時の挨拶を待つ時間になり机に座っていた時のこと、少し乱暴な男の子が、雑納(肩掛けのカバン) で私の背中から後頭部を打ち付けた。「やめてくれ」と言ったがやめない、あまりにも執拗で我慢ならず、机の蓋で(当時はまだ蓋つきの机) 振り向きざま頭を一撃した。突然の反撃に相手も驚いたことだろう。大した傷ではなかったが、保健室で手当てをしてもらいその場は収まった。先生から叱られた記憶もないが、その後、「いじめ」はなくなった。

 勉強した記憶はないが、我が家の庭同然の校庭、講堂前のこんもりとした小さな「森」の中、奉安殿跡地周辺のブランコ、滑り台、鉄棒でよく遊んだものだ。

0

PTAの思い出

 平成20年度・21年度に教頭を務められた迫田さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

PTAの思い出

 平成20年度・21年度 教頭 迫田正純

 「渡小のよい子のみなさーん、今日は、みなさんのためにすっごいゲストが来ておられます。さあ、いったいだれでしょうね。楽しみですね。さあ、ゲストの登場です。それでは、どうぞ!」進行係のアナウンスに続き、ギター演奏による登場曲に乗ってステージに登場したのはミッキーとミニー、続いてリコーダー隊。「ミッキーマウスマーチ」の演奏に始まって、子供達や観客を巻き込んでの「小さな世界」の合唱で盛り上がりました。

 平成20年度の学習発表会で行われたPTA本部役員の皆さんによるパフォーマンスです。私の記憶では、ミッキーとミニーが日當喜代継会長と西林尚賜副会長、ギター演奏が佐々木章好地区委員長、リコーダー隊がその他の本部役員さん方、脚本演出は中村小巻母親部委員長だったと思います。(間違っておりましたら寛大なお心でお許しください。)練習も学校に何回か集まってされました。ご指導はピアノ教室の小川由美先生でした。本部役員さん方のまとまりのよさや、子供達のためにという思いの強さに感心しました。

 この年の4月に私は渡小に赴任したわけですが、4月に渡多目的集会場で開催された歓送迎会では、初対面であるにも関わらず、役員さん方には旧知の仲であるかのように接していただき、一気に緊張がほぐれました。そして5月の役員会は、何と球磨川リバーサイドキャンプ場が会場。会議は手早く済ませ(?)、新旧役員の懇親会に移行しました。球磨川を眺めながらのバーベキューとビールは最高でした。

 PTA行事は毎年充実していました。特筆すべきは、これまで勤務した学校にはなかった独自のユニークな行事がいくつもあったことです。保護者による美化作業はどこの学校でもされていますが、渡小ではそれに加えて「親子ナイター美化作業」を実施されていました。6月に、日中の暑さが和らぐ日没頃から、運動場のナイター照明を点灯しての除草作業は幻想的でさえありました。また、一般的な読み聞かせとは別に、「父親による読み聞かせ」も行われていました。年に1回だけでしたが、本番の1ヶ月前に複数回打合せを行うなどの頑張りようでした。

 郡PTA研究大会参加とは別に、独自のPTA研修旅行も実施されていました。平成20年度の記録を見ると、目的地は鹿児島県で、1日目は当時のNHK大河ドラマの関連で篤姫館の見学をして鹿児島市内のホテル泊、天文館での夕食で楽しいひとときを過ごしました。2日目は霧島市にある嘉例川駅の駅舎見学と嘉例川活性化委員会の方による講話を聴講。そして、鹿児島空港近くのバレルバレー・プラハ&酒匠工房GENにて食事とショッピング、西郷公園での記念撮影。私は研修旅行の企画や添乗員役をさせていただきましたが、参加された役員さん方が大変協力的で、和気あいあいの中、充実した研修となりました。

 一緒にPTA活動をした役員さんにばったり出会うと、当時の記憶がよみがえってきて懐かしさがこみ上げてきます。既に渡小の校舎も他目的集会場もありませんが、役員さん達につくっていただいた「俺は渡小に勤めたんだ」という思い出は、形には残っていなくても私の生きた証です。

0

地域との繋がりを作ってくれた渡小学校

 令和4年度PTA会長槻木さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

地域との繋がりを作ってくれた渡小学校

 令和4年度PTA会長 槻木

 渡に住み始めて15年程経ちますが、私も妻も人吉市出身で、渡小といえば芦北に向かう途中にある学校という認識でした。長男が渡小に入学した時も仕事の都合で入学式には出席できず、その後の学校行事にも出たことはありませんでした。令和2年に自宅も職場も被災し、仕事ばかりだった生活環境ががらりと変わり、家族と過ごす時間が増えました。その年の3月の学校行事に初めて参加し、空に昇っていく無数の風船を眺めていた事を思い出します。縁あって令和3年度にPTA副会長を、4年度に会長職を賜ることになりました。PTAに入り感じた事は、学校の運営は教職員の方のみではなく保護者、地域の人々によって支えられているという事です。夏休みのプール、美化作業、学年行事をするうえでどれ一つ欠けても成立しません。皆さん仕事や家庭の忙しい中子供たちの為に時間と労力をかけ行事を作り上げていく様に感動しました。

 自分の中で特に印象に残っているのは3年度の学校行事の復興を願いながら飾りつけをしたイルミネーションです。沢山の方々から支援、ご協力を頂き、子供たちや保護者、地域の方々が一体となって素晴らしい作品が出来上がりました。周りに街灯が無く、暗く澄み渡った夜に浮かび上がるイルミネーションをキラキラした目で見つめ、遊びまわる子供たちを温かく見つめる皆さんの顔は忘れられません。私にとって渡小学校は、家族とのふれあいを深めてくれただけではなく、今までに関わりの無かった地域の方々とのつながりも作ってくれ、自分自身成長するきっかけをくれました。今はもう旧校舎は解体され、渡小は閉校となりますが、渡地区の明るさと温かさ、団結力はそのままで新しい義務教育学校へと継承し、先々まで続いていく事を願っております。

0

70年前の1年生

 昭和33年度卒業の長船さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

70年前の一年生

 昭和33年度卒 長船

 渡東小学校へ入学した。当時の国語の教科書は、はるおさん、よしこさんで始まったと記憶している。「閉校」寂しさも、一入(ひとしお)である。令和2年7月4日の豪雨災害で加速したのが悔やまれる。兄弟4人、子供2人、卒業生皆それぞれの思いがあるだろう。

 私たちの時代は、木造校舎、渡り廊下、通路は踏板。ゴム草履がトイレにあったように思う。しかし、何ら不自由した思いはない。

 通学路も砂利道。今では考えられない。弁当持参の毎日。冬場は弁当温め。遊びは肥後之守の小刀1本。プールは球磨川。楽しかった思い出が蘇る。

 私たちに人生の基本を教えてくれた149年、ありがとう。

 球磨の 平野の 開くるところ 渡小学校。

0

平成26年度の渡小

 平成26年度の渡小です。川口さんに写真を提供いただきました。

 校長は大園恭幸さん、教頭は田代隆徳さんです。児童数は113人でした。

 この年度の主な行事は、以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 7月24日 山の子海の子交流会in長崎県長与町

 9月25日 5年集団宿泊教室

10月2日  球磨村連合小学校修学旅行

 1月22日 道徳「熊本の心」活用公開授業

 3月6日  お別れ遠足

 3月20日 卒業証書授与式

 6年生担任は、兼田博之さん。卒業生は21人でした。

 

 ALTの先生との授業

 

 6年門松づくり

0

昭和58年度の渡小

 昭和58年度の渡小です。糸原さんに写真を提供いただきました。

 校長は東千徳さん、教頭は西鶴彦さんです。児童数は内布分校、立野分校あわせ158人でした。

 この年度の主な行事です。

 4月8日  入学式

 4月11日 見知り遠足

 5月10日 修学旅行

 6月9日  プール開き

 8月18日 6年生市房キャンプ

11月11日 校内写生大会

 3月8日  送別遠足

 3月24日 卒業式

 

 6年生の市房キャンプ。標高1722mの市房山山頂で撮影された写真です。

 

 卒業記念写真。6年担任は、大石不器夫さん。卒業生は26人でした。

0

昭和62年度の渡小

 昭和62年度の渡小です。日當さんに写真を提供いただきました。

 校長は中島巖さん、教頭は犬童敏春さんです。児童数は内布分校、立野分校合わせ128人でした。

 この年度の主な出来事は以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 4月14日 見知り遠足(石水寺)

 5月13日 修学旅行

 5月30日 春の小運動会

 6月19日 映画学習(二十四の瞳)

 7月6日  七夕集会

 7月26日 2年生日帰りキャンプ(糸原)

 7月28日 豊野少年自然の家 集団宿泊訓練

 8月1日  6年生市房キャンプ

 9月27日 秋季大運動会

10月23日 文部省指定「勤労生産学習」研究発表会

10月29日 さつまいもほり(417.9kg)

11月12日 映画学習(ユーパロ谷のドンベーズ)

11月14日 さつまいもの収穫祭

11月19日 2年生社会科見学

11月29日 6年生史跡巡り(矢部方面)

12月2日  内布分校遠足(TKU放映)

 1月16日 もちつき大会

 2月1日  節分集会

 3月11日 お別れ遠足(近江原)

 3月25日 卒業式

 

 卒業記念の写真です。3月15日に撮影との記録が残っています。

 6年担任は尾方克さん。6年生は24人でした。

0

昭和56年度の渡小

 昭和56年度の渡小です。横川さんに写真を提供いただきました。

 校長は鶴山太平さん、教頭は森川矩郎さん。児童数は内布分校、立野分校合わせ177人でした。

 この年度は以下の出来事がありました。

 4月8日  入学式

 4月13日 旧校舎解体作業開始

 6月24日 竹馬大会

 6月27日 人吉地区自転車競技大会団体1位(3年連続)

 7月22日 自転車競技大会県大会へ

 7月29日 熊本県少年の船 沖縄へ出発(2名参加)

10月4日  校舎改築祝大運動会

10月15日 修学旅行鹿児島市方面

10月23日 3年社会科見学 球磨農孝行、西村繊維、市房ダム等

11月25日 自転車置場完成

 3月15日 ちり焼き場完成

 3月25日 卒業証書授与式

 

 矢岳町へのハイキング。学校には記録は残っていませんでした。校長、養護教諭、給食調理員の姿も見られることから、学校行事として行われたのかもしれません。

 

 

 校舎新築後の初めての卒業生となります。6年担任は桒原弘幸さん。卒業生は30人でした。

 

0

渡小学校の思い出

 昭和45年度卒業の和弘さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 昭和45年度卒 和弘

 私は、渡小学校を卒業して54年になります。渡小学校敷地、以前は渡中学校でした。グラウンドを挟み渡小学校がありました。木造2階建てで風情ある校舎だったのを覚えています。

 思い出あるのは、授業中よくチョークを投げられていたことを覚えています。帰ってから親に話すと、「お前が悪かと・・・」の一言でした。勉強、スポーツも一緒に学びました。頭には入りませんでしたが、楽しかったのを覚えています。

 また、雪の降る寒い日は、はだしでグラウンドを走り、校舎に上がった時の床の温かさは今も忘れません。今思えば、床の温かさ、人の温かさだったのかな・・・と思います。

 講堂での映写機を使用しての映画鑑賞も思い出にあります。今では考えられないことかもしれません。

 楽しかったこと、つらかったこと、子どもなりに色々ありましたが、今では忘れられないよい思い出になっています。懐かしくお世話になった渡小学校は、もうありませんが、私の心の中には残っています。ありがとう・・・渡小学校。お疲れ様でした・・・渡小学校・・・

 これからも孫たちに、ここに渡小学校があったことは語り続けていきたいと思います。

0

PTA役員の思い出

 平成20年度PTA会長の日當さんから思い出をいただきました。誠にありがとうございました。

 

PTA役員の思い出

  平成20年度PTA会長 日當 喜代継

 私は、渡小学校の卒業生であり、三人の子供も卒業生です。子供が入学してしばらくは何にも役を受けていなかったので、子供との会話も、「お帰り、学校はどうだった。」と言うくらいでした。

 それから何年か経ち、PTA役員を受ける事になり、子供の為にと思い頑張ろうという気持ちになってきました。それからは、学校に行く機会が増え、先生方からも声をかけていただけるようになり、子供の行動がわかるようになり、凄く嬉しく思った事を思い出します。そして、その頃は保護者の皆さんとも仲良くなり、色んな話をするようになりました。皆さんPTA活動に協力的な人が多く、役を受けていただき、大変だけど楽しい保護者会が出来たのかなと思います。

 子供たちが楽しんでくれるように、発表会では劇をしたり、歌を歌ったり、手が動かないのに太鼓をたたいたり色んなことをしてきました。運動会では、子供の体操服を着たり、仮装をしたりと走っていたのを思い出します。

 このような楽しい生活が出来ていたのは、渡小学校であり、先生、保護者、地域の皆さんの連携があったからこそ、子供たちが学び成長しすばらしい思い出が出来たのだと確信しています。

 渡小学校の閉校はとても残念ですが、渡小学校の精神、文化、そして思い出を忘れず、新しい学校の思い出を作っていってほしいと思います。

0

昭和63年度の渡小

 昭和63年度の渡小です。境目さんに写真を提供いただきました。

 校長は永田吉之丞さん、教頭は北川桂四郎さんです。児童数は、内布分校、立野分校合わせ115人でした。

 この年度の主な出来事は以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 5月26日 4年社会科見学(熊本)

 7月3日  5年PTA親子グランドゴルフ

 9月27日 秋季大運動会(火曜日実施)

10月20日 秋の遠足(一勝地第二小学校へ)

10月27日 修学旅行 鹿児島、指宿方面

11月1日  校内写生大会

11月13日 4年親子矢岳ハイキング

11月15日 5年集団宿泊教室

11月27日 6年史跡見学・体力づくり(日本一階段)

12月20日 学習発表会

2月5日   6年親子レクリエーション

3月25日  卒業式

 

 担任は中尾恵理教諭、乙益勘司教諭(内布分校)、瀬戸雅代教諭(立野分校)です。入学児童は14人でした。

0

平成5年度の渡小

 平成5年度の渡小です。境目さんから写真を提供いただきました。

 校長は川邊邦道さん、教頭は森田信行さんです。児童数は、内布分校、立野分校あわせて123人でした。

 この年度の行事等を見てみると、以下の記録がありました。

・4月の見知り遠足は、雨のため校内遠足に

・8月1日 大雨のため島田・茶屋地区冠水

・映画鑑賞が二度行われています。「ぞう列車がやってきた」「赤まんまの歌」

・卒業記念製作は「屋外掲示板」

 

 卒業式前日です。卒業記念製作の前での撮影です。

 卒業生は15人。担任は、園田富巳子教諭でした。

 

卒業記念写真

 

 素敵な卒業式だったようです。

 

 卒業式後、卒業記念製作の前で。

0

50年以上前の思い出

 昭和41年度卒業の紀子さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

50年以上前の思い出   

 昭和41年度卒 紀子

 私は、今年69歳になります。渡小学校在学時代というと50年以上になります。

 ☆先生の思い出

 低学年の時、担任の先生は、袴をはいて体育の授業をなさいました。小柄な方で、タッタッタッと軽やかに動いてらした。

 5年6年時の若い男の先生は、休み時間にも私たちとサッカーなどをしてくださいました。3年、4年の復習のテストをしてくださり、勉強が好きになりました。遊ぶために必死で問題を解いて運動場へかけ出して行きましたよ!その先生は、家まで来て親たちと子供たちの生活に気を配ってくださいました。

 ☆小学校と中学校が運動場をはさんで向かい合っており、低学年の時は小・中一緒の秋の運動会でした。渡の一大イベントでしたから、出店もあり青いみかんの香りのする昼のお弁当の時間でした。私たちのお遊戯の時間など、焼酎に酔ったおじさんがヒョコヒョコ出てらして、にぎわいました。なんといっても、部落対抗リレーにぎわいましたよ。

 ☆夏は小川川での天然プールでの水泳でした。魚ととんぼ、蝶などと一緒でした。もちろん夏休みは、部落ごとの水泳場を球磨川などに父兄の方がつくって下さり、思いっきり泳いでいました。

 朝は、7月25日から8月31日までラジオ体操があり、舟戸部落はきくちゃんの家でありました。きくちゃんのお父さんとお兄さんがよく川で遊んだものです。球磨川で魚をいっぱいとってきていました。その頃の球磨川は豊かでした。草むらには、牛が放されていました。

 ☆夏の思い出に特別なものがあります。私の父は長崎原爆に14歳で被爆しています。命からがら渡へ帰ってきました。様子を話してくれました。絶対に戦争はしてはならないと平和の尊さを語っていました。私は被爆二世です。父の思いを語っていかなくてはなりません。

 ☆冬や霜と霜や雪の通学でした。内布分校、立野分校の生徒たちには持久走で追いつきませんでした。走って登校してくるので強いんです!

 ☆給食の思い出は、はじめ脱脂粉乳でした。給食調理場ができて、くじら肉の竜田揚げや砂糖をまぶした揚げパン、カレーなどおいしかったです。お弁当を持って行ったころは、冬お弁当を温めるための箱があり、たくあんのにおいが教室中に立ち込めていました。

 最後に、渡小学校はなくなりますが、今の小学生に言いたい。あなた達は宇宙へ行くでしょう。知力と体力を作って飛び出していってください。活躍を期待します。そして、平和な世界をつくっていってください。♪わたりー、わたりー、我らが母校ですね♪

0

渡小学校の思い出

 平成27年度卒業の文音さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 平成27年度卒 文音

 ランドセルを背負って通った渡小学校6年間の思い出はたくさんあります。

 一つ目は運動会です。組体操で一つの技をみんなで作りあげたり、応援団でたくさん声を出したり、顔を真っ白にしながら飴を見つけたり、とても楽しかったです。6年生の時には、閉会の言葉をたくさん練習して言ったのを覚えています。

 二つ目は、親子キャンプです。スイカ割りや校内で肝試しをしました。夜の学校は初めてでワクワクしたり、いろんな仕掛けに怖くて叫んだり、たくさん笑ったのを覚えています。

 三つ目は、卒業記念で遊具にペンキを塗ったり、花壇に自分たちの名前を書いたりしたことです。寒い中ペンキが付くのも気にせずみんなで色を塗りました。名前を書くのはとても難しかったです。卒業後も名前を書いた花壇の前で友達と一緒に写真を撮ったりして、いい思い出となりました。

 長いようで短かった6年間、渡小学校とみんなと過ごせてよかったです。

0

渡小時代の思い出

 昭和41年度卒業の若明さんに思い出をよせていただきました。ありがとうございました。

 

渡小時代の思い出

 昭和41年度卒 若明 

 「数あるトンネル くぐりくぐりて 球磨の平野のひらくるところ」この校歌を、初めて聞いたのは、62年前の入学式で、その6年後の卒業式まで、その節目節目に校歌を歌うと共に、渡小学校は色々な思い出を私に作ってくれました。

 まずは、石水寺への遠足、遠かった~。何せ子どもの足ですから。でも、その分友達と原っぱで食べるお弁当は、格別に美味しかった。また、この日ばかりは、おやつも持参出来たし、食後のゲーム「宝探し」に夢中になり、汗をいっぱいかいた思い出があります。楽しかったな~。

 つぎは、現在ではちょっと信じられない行事です。「球磨んたろう」付近の球磨川の浅瀬で実施されていた、体育授業の一貫「水泳練習」です。いくら、プールが無いとは言え、あの球磨川で何十人もの子供に水泳練習させる行事、今ではちょっと実施出来ないでしょうね。当時、低学年の私は、あまり泳ぎが得意ではなく、もっぱら水遊びに集中していました。だから、これも楽しかった~。

 でも、思い出として一番強いのは、やっぱり運動会かな。小学校の頃は、けっこう走るのが速かったので、運動会は大好きでした。徒競走、障害物競走、フォークダンスもあったかな。恥ずかしながら女性と手を繋いだ記憶もあります。昼食は外で家族と一緒に食べる事ができ、それも巻き寿司とか、いなり寿司等の豪華なメニューばかり。

 また、グラウンドの周囲外側には、色々な出店が来ていて、欲しい物がいっぱいありました。

 それから、昼一番の鼓笛隊の演奏・行進、私は小太鼓を演奏していましたが、緊張して何度か間違ってしまいました。また、運動会の最大の盛り上がりは、やっぱり終盤の地区対抗リレーです。その頃になると、どこのお父さん方も焼酎で良い頃合いになり、皆がトラックの半分くらいまで出て来て、自分の子供や地区の走者に、大きな声と手拭いを振り翳しての応援でした。そんな事が許される時代だったんですね。

 何せ、運動会は学校にとっても、全地区の家族全員にとっても、最大のイベントだったと思います。

 それから、学習の方での思い出は、家庭科実習で「粉吹きいも」と「目玉焼き」を作った事です。多分、その時が生まれて初めての料理体験だったと思います。特に当時、卵はまだ貴重なものとの思いがあったので、真剣に目玉焼きの作り方を教わりました。約28年程前、東南アジアの各地へ出張する機会があり、ホテルの朝食で目玉焼きを目の前で焼いてくれるところがあり、「サニーサイドアップを二個」と注文すると、その作り方が私が渡小で教わった作り方と全く同じであったので、「あっ、同じだ。」とその時の記憶が蘇りました。渡小の教えは世界でも通用しま~す。?? 

 その他、大きな銀杏とどんぐりの木や、土曜日の午後の講堂での映画鑑賞、放送部員の担当内容、通学の登下校の事、等々、沢山の”思い出”が思い出されます。

 最後になりますが、渡小学校「君」、沢山の思い出を作ってくれて「ありがとう」、そして長い間本当に「ご苦労様」でした。

0