渡小学校の歴史

昔の渡小

渡小学校149年の歴史にありがとう

渡小学校149年の歴史にありがとう

 球磨村立渡小学校 校長 東 篤哉

 令和2年7月豪雨からの復興、そして、閉校を迎える学校を預かる校長としてこの2年間感じたことは、様々な方々に支えていただき今があるというものでした。

 赴任時、仮設校舎内には、全国から送られてきた励ましのメッセージが掲げられていました。また、多くの支援物資・支援金が届き、子供たちを元気づけようと様々な機関・団体から支援のお申し出をいただきました。大きく、そして温かい力で支えられているという安心感の下で教育活動を進めることができました。

 保護者の皆様にも大きな支援をいただきました。槻木前会長、白石会長はじめ役員の皆様には、無理な相談にも乗っていただきました。復興イルミネーションの設置や校舎解体セレモニーは、保護者の皆様のお力なしでは実現しえないものでした。

 地域の皆様にも、登下校の見守りをはじめ、ゲストティーチャー等でいつも子供たちを支えていただきました。学校運営協議会の皆様には、学校の課題について学校とは異なる視点から多くの助言をいただき、解決に向けて一緒に取組を進めていただきました。閉校にあたり、卒業生・地域の皆様には多額のご寄付もいただきました。閉校記念式典を渡小学校の運動場で開催できたのも皆様のおかげです。

 上野会長をはじめとした閉校実行委員会の皆様にも、大きな力をいただきました。多くの会議、膨大な作業にもかかわらず、「地域の学校だから」と笑顔で閉校事業をリードいただきました。閉校記念誌の作成にあたっては、水害により学校に残っている資料はほぼない状態からのスタートでしたが、委員会の皆様の声かけのおかげで、寄せられた写真は1,100枚、当時の思い出を記した文も70点を超えました。渡小学校の歴史を語り継ぐ貴重な資料となり、地域の皆様の渡小学校を思う気持ちを改めて感じたところです。

 子供たち及び職員にも感謝したいと思います。水害からこの4年あまりは、渡小学校の歴史の中でも、苦しく困難な時期であったことは間違いありません。学校だけでなく、多くの家庭も被災し、つらい思いをした子も多かったと思います。しかし、そんな中でも明るく学校生活を送る子供たちの姿に逆に元気をもらう毎日でした。職員も子供たちに寄り添い、粘り強く指導を続けてくれました。そんな子供たち、職員を心から誇りに思います。

 地域と共にある学校として、これまで46人の校長及び多くの職員が、地域の皆様の支援を得て子供たちと共に伝統を繋いできました。その学校のアンカーとしてゴールテープを切ることができることを、寂しさの一方で大きな喜びとして感じています。これまで5,358人の卒業生を世に送り出してきた我が母校。形としてはなくなってしまいますが、これからもずっと皆の心の中に残り続けると思います。

 4月、新たな歴史の始まりとなる球磨清流学園が開校となります。「後輩」である子供たちが、将来への夢をもち、夢の実現に向かって力強く歩んでいくことを心から願い、これからも応援を続けていきます。

 最後になりましたが、物心両面において大きなご支援をいただきました松谷村長様はじめ村当局、教育委員会の皆様に厚くお礼申し上げます。

 渡小学校149年の歴史にありがとう。

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ある日の出来事

 渡東小学校昭和34年度卒業の俊治さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

ある日の出来事

 渡東小学校昭和34年度卒 俊治

 入学当時は体が弱く、学校を休むこともしばしばあった。我が家から校庭で遊ぶみんなの姿をぼんやりと眺めていたこともあり、低学年の思い出はあまりない。高学年になり体力がついたのか少しばかり活発に過ごせるようになった。

 そんなある日事件は起きた。 下校時の挨拶を待つ時間になり机に座っていた時のこと、少し乱暴な男の子が、雑納(肩掛けのカバン) で私の背中から後頭部を打ち付けた。「やめてくれ」と言ったがやめない、あまりにも執拗で我慢ならず、机の蓋で(当時はまだ蓋つきの机) 振り向きざま頭を一撃した。突然の反撃に相手も驚いたことだろう。大した傷ではなかったが、保健室で手当てをしてもらいその場は収まった。先生から叱られた記憶もないが、その後、「いじめ」はなくなった。

 勉強した記憶はないが、我が家の庭同然の校庭、講堂前のこんもりとした小さな「森」の中、奉安殿跡地周辺のブランコ、滑り台、鉄棒でよく遊んだものだ。

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渡小学校の閉校にあたって

渡小学校の閉校にあたって

 令和5年度PTA会長 白石 将司

 渡小学校は、令和6年4月に義務教育学校「球磨清流学園」の開校に合わせて、149年の歴史に幕を下ろします。この間、多く子ども達が通い、先生方との思い出を作り、そして、地域の教育文化の中心となってきました。

 私は、渡小学校の閉校の年にPTA会長をさせていただき、渡地域との縁を深く感じています。私自身、球磨村出身ではありませんが、母も妻も渡地域出身であり、職場も渡です。球磨村に居住し8年目となり、家族共々、地域の方々には暖かく接していただき感謝しております。

 令和2年7月豪雨災害により球磨村全体が甚大な被害を受けました、渡小学校も一階部分が浸水し解体を余儀なくされ、現在は、球磨中学校敷地内のプレハブでの学校生活となっています。子ども達もたくさんの友達が転校する事となりました。以前の渡小学校に戻ることはありませんが、今後の子ども達のため、地域と教育文化のためにも今できることをひとつひとつ行っていくことが大事であると思います。新校舎についても必要なことです。球磨清流学園は、既存施設を活用して開校となっていますが、今回の災害があったからこそ、まずは避難が容易であり通学路の確保ができる場所への新校舎の建設を期待しています。

 コロナウィルス感染症の流行や令和2年豪雨災害とPTA活動が困難は時期が続きましたが、今後は球磨清流学園として、保護者と先生方、そして地域の方々と協力連携し、子ども達の教育効果を上げていけるよう、PTA活動を行って参ります。

 最後になりますが、これまで渡小学校を支えていただいた全ての方々に心から感謝を申し上げますと共に、球磨清流学園の子ども達へのご支援とPTA活動へのご協力をお願いいたしまして閉校にあたってのご挨拶とさせていただきます。

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渡小学校区の家庭、地域、学校の絆

 令和2・3年度校長の犬童裕美さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校区の家庭、地域、学校の絆

 第46代(令和2・3年度)校長犬童 裕美

 私は、令和2、3年度の2年間、渡小学校に勤務させていただきました。渡小学校は、校長として初めて勤務した学校ですので、特に忘れることのできない学校です。赴任した年の7月に豪雨が発生しました。

 渡小学校では、毎年、家庭、地域、学校等が協力し、校内の除草作業が行われてきました。令和2年度は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、4月から2か月休校した後、6月に学校を再開しました。6月28日に保護者、学校運営協議会、老人会、職員との合同で除草作業を行い、学校の環境が整備されました。そして、7月3日に授業参観を行い、保護者の方に子供たちが整った環境の中で学習している姿を見ていただきました。その翌日の7月4日に水害が発生しました。整備された校内の環境は、見る影もなくなりました。

 しかし、その後、PTA主催で災害清掃を行い、地域の方、村内外のボランティア団体との協働で、流木等を片付けることができました。清掃後の花壇には地域の方が花を植えてくださいました。また、地域学校協働本部と老人会の主催により、復旧作業が終わった運動場で復興グランドゴルフが行われました。この復興グランドゴルフには、家庭や学校からも呼びかけたことで多くの参加者があり、渡小学校に笑顔があふれました。

 PTAは、全体行事として「絆アルバム」(子供、保護者、職員、地域の方の写真が並んでいます。)を作成し、渡小学校運動場にイルミネーション設置を行いました。どちらも家庭、地域、学校が一体となった取組でした。このような取組を通して、2年の間に、少しずつ復興していきました。 

 渡小学校区は、家庭、地域、学校の絆が強いところであることを実感しました。水害後はこの絆で前に進み、さらに絆が強くなったように思いました。復興には、この家庭、地域、学校の絆が大きく影響していたことに、心から感謝しています。

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平成23年度の渡小

 平成23年度の渡小です。

 校長は松田晃二さん、教頭は大倉幸代さん。児童数は105人でした。

1年生

 

2年生

 

3年生

 

4年生

 

5年生

 

6年生 

 

 主な行事は以下のようなものでした。

 4月11日  入学式

 4月15日  家庭訪問

 5月9日   緑の少年団結団式

 6月9日   球磨村連合小学校修学旅行

 7月30日  6年キャンプ(ビワキャンプ場)

 8月10日  山の子海の子交流会イン球磨

10月22日  下球磨ソフトボール大会(優勝)

10月26日  5年生集団宿泊教室(あしきた青少年の家)

11月11日  犬童球渓顕彰音楽祭

12月14日  球磨村小学生持久走大会

 1月15日  PTA全体学年行事(どんどや)

 3月9日   送別遠足

 3月23日  卒業式

 

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ある日の出来事

 昭和34年度卒業の俊治さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

ある日の出来事

渡東小学校昭和34年度卒 小川 俊治

 入学当時は体が弱く、学校を休むこともしばしばあった。我が家から校庭で遊ぶみんなの姿をぼんやりと眺めていたこともあり、低学年の思い出はあまりない。高学年になり体力がついたのか少しばかり活発に過ごせるようになった。

 そんなある日事件は起きた。 下校時の挨拶を待つ時間になり机に座っていた時のこと、少し乱暴な男の子が、雑納(肩掛けのカバン) で私の背中から後頭部を打ち付けた。「やめてくれ」と言ったがやめない、あまりにも執拗で我慢ならず、机の蓋で(当時はまだ蓋つきの机) 振り向きざま頭を一撃した。突然の反撃に相手も驚いたことだろう。大した傷ではなかったが、保健室で手当てをしてもらいその場は収まった。先生から叱られた記憶もないが、その後、「いじめ」はなくなった。

 勉強した記憶はないが、我が家の庭同然の校庭、講堂前のこんもりとした小さな「森」の中、奉安殿跡地周辺のブランコ、滑り台、鉄棒でよく遊んだものだ。

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PTAの思い出

 平成20年度・21年度に教頭を務められた迫田さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

PTAの思い出

 平成20年度・21年度 教頭 迫田正純

 「渡小のよい子のみなさーん、今日は、みなさんのためにすっごいゲストが来ておられます。さあ、いったいだれでしょうね。楽しみですね。さあ、ゲストの登場です。それでは、どうぞ!」進行係のアナウンスに続き、ギター演奏による登場曲に乗ってステージに登場したのはミッキーとミニー、続いてリコーダー隊。「ミッキーマウスマーチ」の演奏に始まって、子供達や観客を巻き込んでの「小さな世界」の合唱で盛り上がりました。

 平成20年度の学習発表会で行われたPTA本部役員の皆さんによるパフォーマンスです。私の記憶では、ミッキーとミニーが日當喜代継会長と西林尚賜副会長、ギター演奏が佐々木章好地区委員長、リコーダー隊がその他の本部役員さん方、脚本演出は中村小巻母親部委員長だったと思います。(間違っておりましたら寛大なお心でお許しください。)練習も学校に何回か集まってされました。ご指導はピアノ教室の小川由美先生でした。本部役員さん方のまとまりのよさや、子供達のためにという思いの強さに感心しました。

 この年の4月に私は渡小に赴任したわけですが、4月に渡多目的集会場で開催された歓送迎会では、初対面であるにも関わらず、役員さん方には旧知の仲であるかのように接していただき、一気に緊張がほぐれました。そして5月の役員会は、何と球磨川リバーサイドキャンプ場が会場。会議は手早く済ませ(?)、新旧役員の懇親会に移行しました。球磨川を眺めながらのバーベキューとビールは最高でした。

 PTA行事は毎年充実していました。特筆すべきは、これまで勤務した学校にはなかった独自のユニークな行事がいくつもあったことです。保護者による美化作業はどこの学校でもされていますが、渡小ではそれに加えて「親子ナイター美化作業」を実施されていました。6月に、日中の暑さが和らぐ日没頃から、運動場のナイター照明を点灯しての除草作業は幻想的でさえありました。また、一般的な読み聞かせとは別に、「父親による読み聞かせ」も行われていました。年に1回だけでしたが、本番の1ヶ月前に複数回打合せを行うなどの頑張りようでした。

 郡PTA研究大会参加とは別に、独自のPTA研修旅行も実施されていました。平成20年度の記録を見ると、目的地は鹿児島県で、1日目は当時のNHK大河ドラマの関連で篤姫館の見学をして鹿児島市内のホテル泊、天文館での夕食で楽しいひとときを過ごしました。2日目は霧島市にある嘉例川駅の駅舎見学と嘉例川活性化委員会の方による講話を聴講。そして、鹿児島空港近くのバレルバレー・プラハ&酒匠工房GENにて食事とショッピング、西郷公園での記念撮影。私は研修旅行の企画や添乗員役をさせていただきましたが、参加された役員さん方が大変協力的で、和気あいあいの中、充実した研修となりました。

 一緒にPTA活動をした役員さんにばったり出会うと、当時の記憶がよみがえってきて懐かしさがこみ上げてきます。既に渡小の校舎も他目的集会場もありませんが、役員さん達につくっていただいた「俺は渡小に勤めたんだ」という思い出は、形には残っていなくても私の生きた証です。

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地域との繋がりを作ってくれた渡小学校

 令和4年度PTA会長槻木さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

地域との繋がりを作ってくれた渡小学校

 令和4年度PTA会長 槻木

 渡に住み始めて15年程経ちますが、私も妻も人吉市出身で、渡小といえば芦北に向かう途中にある学校という認識でした。長男が渡小に入学した時も仕事の都合で入学式には出席できず、その後の学校行事にも出たことはありませんでした。令和2年に自宅も職場も被災し、仕事ばかりだった生活環境ががらりと変わり、家族と過ごす時間が増えました。その年の3月の学校行事に初めて参加し、空に昇っていく無数の風船を眺めていた事を思い出します。縁あって令和3年度にPTA副会長を、4年度に会長職を賜ることになりました。PTAに入り感じた事は、学校の運営は教職員の方のみではなく保護者、地域の人々によって支えられているという事です。夏休みのプール、美化作業、学年行事をするうえでどれ一つ欠けても成立しません。皆さん仕事や家庭の忙しい中子供たちの為に時間と労力をかけ行事を作り上げていく様に感動しました。

 自分の中で特に印象に残っているのは3年度の学校行事の復興を願いながら飾りつけをしたイルミネーションです。沢山の方々から支援、ご協力を頂き、子供たちや保護者、地域の方々が一体となって素晴らしい作品が出来上がりました。周りに街灯が無く、暗く澄み渡った夜に浮かび上がるイルミネーションをキラキラした目で見つめ、遊びまわる子供たちを温かく見つめる皆さんの顔は忘れられません。私にとって渡小学校は、家族とのふれあいを深めてくれただけではなく、今までに関わりの無かった地域の方々とのつながりも作ってくれ、自分自身成長するきっかけをくれました。今はもう旧校舎は解体され、渡小は閉校となりますが、渡地区の明るさと温かさ、団結力はそのままで新しい義務教育学校へと継承し、先々まで続いていく事を願っております。

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70年前の1年生

 昭和33年度卒業の長船さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

70年前の一年生

 昭和33年度卒 長船

 渡東小学校へ入学した。当時の国語の教科書は、はるおさん、よしこさんで始まったと記憶している。「閉校」寂しさも、一入(ひとしお)である。令和2年7月4日の豪雨災害で加速したのが悔やまれる。兄弟4人、子供2人、卒業生皆それぞれの思いがあるだろう。

 私たちの時代は、木造校舎、渡り廊下、通路は踏板。ゴム草履がトイレにあったように思う。しかし、何ら不自由した思いはない。

 通学路も砂利道。今では考えられない。弁当持参の毎日。冬場は弁当温め。遊びは肥後之守の小刀1本。プールは球磨川。楽しかった思い出が蘇る。

 私たちに人生の基本を教えてくれた149年、ありがとう。

 球磨の 平野の 開くるところ 渡小学校。

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平成26年度の渡小

 平成26年度の渡小です。川口さんに写真を提供いただきました。

 校長は大園恭幸さん、教頭は田代隆徳さんです。児童数は113人でした。

 この年度の主な行事は、以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 7月24日 山の子海の子交流会in長崎県長与町

 9月25日 5年集団宿泊教室

10月2日  球磨村連合小学校修学旅行

 1月22日 道徳「熊本の心」活用公開授業

 3月6日  お別れ遠足

 3月20日 卒業証書授与式

 6年生担任は、兼田博之さん。卒業生は21人でした。

 

 ALTの先生との授業

 

 6年門松づくり

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昭和58年度の渡小

 昭和58年度の渡小です。糸原さんに写真を提供いただきました。

 校長は東千徳さん、教頭は西鶴彦さんです。児童数は内布分校、立野分校あわせ158人でした。

 この年度の主な行事です。

 4月8日  入学式

 4月11日 見知り遠足

 5月10日 修学旅行

 6月9日  プール開き

 8月18日 6年生市房キャンプ

11月11日 校内写生大会

 3月8日  送別遠足

 3月24日 卒業式

 

 6年生の市房キャンプ。標高1722mの市房山山頂で撮影された写真です。

 

 卒業記念写真。6年担任は、大石不器夫さん。卒業生は26人でした。

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昭和62年度の渡小

 昭和62年度の渡小です。日當さんに写真を提供いただきました。

 校長は中島巖さん、教頭は犬童敏春さんです。児童数は内布分校、立野分校合わせ128人でした。

 この年度の主な出来事は以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 4月14日 見知り遠足(石水寺)

 5月13日 修学旅行

 5月30日 春の小運動会

 6月19日 映画学習(二十四の瞳)

 7月6日  七夕集会

 7月26日 2年生日帰りキャンプ(糸原)

 7月28日 豊野少年自然の家 集団宿泊訓練

 8月1日  6年生市房キャンプ

 9月27日 秋季大運動会

10月23日 文部省指定「勤労生産学習」研究発表会

10月29日 さつまいもほり(417.9kg)

11月12日 映画学習(ユーパロ谷のドンベーズ)

11月14日 さつまいもの収穫祭

11月19日 2年生社会科見学

11月29日 6年生史跡巡り(矢部方面)

12月2日  内布分校遠足(TKU放映)

 1月16日 もちつき大会

 2月1日  節分集会

 3月11日 お別れ遠足(近江原)

 3月25日 卒業式

 

 卒業記念の写真です。3月15日に撮影との記録が残っています。

 6年担任は尾方克さん。6年生は24人でした。

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昭和56年度の渡小

 昭和56年度の渡小です。横川さんに写真を提供いただきました。

 校長は鶴山太平さん、教頭は森川矩郎さん。児童数は内布分校、立野分校合わせ177人でした。

 この年度は以下の出来事がありました。

 4月8日  入学式

 4月13日 旧校舎解体作業開始

 6月24日 竹馬大会

 6月27日 人吉地区自転車競技大会団体1位(3年連続)

 7月22日 自転車競技大会県大会へ

 7月29日 熊本県少年の船 沖縄へ出発(2名参加)

10月4日  校舎改築祝大運動会

10月15日 修学旅行鹿児島市方面

10月23日 3年社会科見学 球磨農孝行、西村繊維、市房ダム等

11月25日 自転車置場完成

 3月15日 ちり焼き場完成

 3月25日 卒業証書授与式

 

 矢岳町へのハイキング。学校には記録は残っていませんでした。校長、養護教諭、給食調理員の姿も見られることから、学校行事として行われたのかもしれません。

 

 

 校舎新築後の初めての卒業生となります。6年担任は桒原弘幸さん。卒業生は30人でした。

 

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渡小学校の思い出

 昭和45年度卒業の和弘さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 昭和45年度卒 和弘

 私は、渡小学校を卒業して54年になります。渡小学校敷地、以前は渡中学校でした。グラウンドを挟み渡小学校がありました。木造2階建てで風情ある校舎だったのを覚えています。

 思い出あるのは、授業中よくチョークを投げられていたことを覚えています。帰ってから親に話すと、「お前が悪かと・・・」の一言でした。勉強、スポーツも一緒に学びました。頭には入りませんでしたが、楽しかったのを覚えています。

 また、雪の降る寒い日は、はだしでグラウンドを走り、校舎に上がった時の床の温かさは今も忘れません。今思えば、床の温かさ、人の温かさだったのかな・・・と思います。

 講堂での映写機を使用しての映画鑑賞も思い出にあります。今では考えられないことかもしれません。

 楽しかったこと、つらかったこと、子どもなりに色々ありましたが、今では忘れられないよい思い出になっています。懐かしくお世話になった渡小学校は、もうありませんが、私の心の中には残っています。ありがとう・・・渡小学校。お疲れ様でした・・・渡小学校・・・

 これからも孫たちに、ここに渡小学校があったことは語り続けていきたいと思います。

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PTA役員の思い出

 平成20年度PTA会長の日當さんから思い出をいただきました。誠にありがとうございました。

 

PTA役員の思い出

  平成20年度PTA会長 日當 喜代継

 私は、渡小学校の卒業生であり、三人の子供も卒業生です。子供が入学してしばらくは何にも役を受けていなかったので、子供との会話も、「お帰り、学校はどうだった。」と言うくらいでした。

 それから何年か経ち、PTA役員を受ける事になり、子供の為にと思い頑張ろうという気持ちになってきました。それからは、学校に行く機会が増え、先生方からも声をかけていただけるようになり、子供の行動がわかるようになり、凄く嬉しく思った事を思い出します。そして、その頃は保護者の皆さんとも仲良くなり、色んな話をするようになりました。皆さんPTA活動に協力的な人が多く、役を受けていただき、大変だけど楽しい保護者会が出来たのかなと思います。

 子供たちが楽しんでくれるように、発表会では劇をしたり、歌を歌ったり、手が動かないのに太鼓をたたいたり色んなことをしてきました。運動会では、子供の体操服を着たり、仮装をしたりと走っていたのを思い出します。

 このような楽しい生活が出来ていたのは、渡小学校であり、先生、保護者、地域の皆さんの連携があったからこそ、子供たちが学び成長しすばらしい思い出が出来たのだと確信しています。

 渡小学校の閉校はとても残念ですが、渡小学校の精神、文化、そして思い出を忘れず、新しい学校の思い出を作っていってほしいと思います。

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昭和63年度の渡小

 昭和63年度の渡小です。境目さんに写真を提供いただきました。

 校長は永田吉之丞さん、教頭は北川桂四郎さんです。児童数は、内布分校、立野分校合わせ115人でした。

 この年度の主な出来事は以下のとおりです。

 4月9日  入学式

 5月26日 4年社会科見学(熊本)

 7月3日  5年PTA親子グランドゴルフ

 9月27日 秋季大運動会(火曜日実施)

10月20日 秋の遠足(一勝地第二小学校へ)

10月27日 修学旅行 鹿児島、指宿方面

11月1日  校内写生大会

11月13日 4年親子矢岳ハイキング

11月15日 5年集団宿泊教室

11月27日 6年史跡見学・体力づくり(日本一階段)

12月20日 学習発表会

2月5日   6年親子レクリエーション

3月25日  卒業式

 

 担任は中尾恵理教諭、乙益勘司教諭(内布分校)、瀬戸雅代教諭(立野分校)です。入学児童は14人でした。

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平成5年度の渡小

 平成5年度の渡小です。境目さんから写真を提供いただきました。

 校長は川邊邦道さん、教頭は森田信行さんです。児童数は、内布分校、立野分校あわせて123人でした。

 この年度の行事等を見てみると、以下の記録がありました。

・4月の見知り遠足は、雨のため校内遠足に

・8月1日 大雨のため島田・茶屋地区冠水

・映画鑑賞が二度行われています。「ぞう列車がやってきた」「赤まんまの歌」

・卒業記念製作は「屋外掲示板」

 

 卒業式前日です。卒業記念製作の前での撮影です。

 卒業生は15人。担任は、園田富巳子教諭でした。

 

卒業記念写真

 

 素敵な卒業式だったようです。

 

 卒業式後、卒業記念製作の前で。

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50年以上前の思い出

 昭和41年度卒業の紀子さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

50年以上前の思い出   

 昭和41年度卒 紀子

 私は、今年69歳になります。渡小学校在学時代というと50年以上になります。

 ☆先生の思い出

 低学年の時、担任の先生は、袴をはいて体育の授業をなさいました。小柄な方で、タッタッタッと軽やかに動いてらした。

 5年6年時の若い男の先生は、休み時間にも私たちとサッカーなどをしてくださいました。3年、4年の復習のテストをしてくださり、勉強が好きになりました。遊ぶために必死で問題を解いて運動場へかけ出して行きましたよ!その先生は、家まで来て親たちと子供たちの生活に気を配ってくださいました。

 ☆小学校と中学校が運動場をはさんで向かい合っており、低学年の時は小・中一緒の秋の運動会でした。渡の一大イベントでしたから、出店もあり青いみかんの香りのする昼のお弁当の時間でした。私たちのお遊戯の時間など、焼酎に酔ったおじさんがヒョコヒョコ出てらして、にぎわいました。なんといっても、部落対抗リレーにぎわいましたよ。

 ☆夏は小川川での天然プールでの水泳でした。魚ととんぼ、蝶などと一緒でした。もちろん夏休みは、部落ごとの水泳場を球磨川などに父兄の方がつくって下さり、思いっきり泳いでいました。

 朝は、7月25日から8月31日までラジオ体操があり、舟戸部落はきくちゃんの家でありました。きくちゃんのお父さんとお兄さんがよく川で遊んだものです。球磨川で魚をいっぱいとってきていました。その頃の球磨川は豊かでした。草むらには、牛が放されていました。

 ☆夏の思い出に特別なものがあります。私の父は長崎原爆に14歳で被爆しています。命からがら渡へ帰ってきました。様子を話してくれました。絶対に戦争はしてはならないと平和の尊さを語っていました。私は被爆二世です。父の思いを語っていかなくてはなりません。

 ☆冬や霜と霜や雪の通学でした。内布分校、立野分校の生徒たちには持久走で追いつきませんでした。走って登校してくるので強いんです!

 ☆給食の思い出は、はじめ脱脂粉乳でした。給食調理場ができて、くじら肉の竜田揚げや砂糖をまぶした揚げパン、カレーなどおいしかったです。お弁当を持って行ったころは、冬お弁当を温めるための箱があり、たくあんのにおいが教室中に立ち込めていました。

 最後に、渡小学校はなくなりますが、今の小学生に言いたい。あなた達は宇宙へ行くでしょう。知力と体力を作って飛び出していってください。活躍を期待します。そして、平和な世界をつくっていってください。♪わたりー、わたりー、我らが母校ですね♪

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渡小学校の思い出

 平成27年度卒業の文音さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 平成27年度卒 文音

 ランドセルを背負って通った渡小学校6年間の思い出はたくさんあります。

 一つ目は運動会です。組体操で一つの技をみんなで作りあげたり、応援団でたくさん声を出したり、顔を真っ白にしながら飴を見つけたり、とても楽しかったです。6年生の時には、閉会の言葉をたくさん練習して言ったのを覚えています。

 二つ目は、親子キャンプです。スイカ割りや校内で肝試しをしました。夜の学校は初めてでワクワクしたり、いろんな仕掛けに怖くて叫んだり、たくさん笑ったのを覚えています。

 三つ目は、卒業記念で遊具にペンキを塗ったり、花壇に自分たちの名前を書いたりしたことです。寒い中ペンキが付くのも気にせずみんなで色を塗りました。名前を書くのはとても難しかったです。卒業後も名前を書いた花壇の前で友達と一緒に写真を撮ったりして、いい思い出となりました。

 長いようで短かった6年間、渡小学校とみんなと過ごせてよかったです。

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渡小時代の思い出

 昭和41年度卒業の若明さんに思い出をよせていただきました。ありがとうございました。

 

渡小時代の思い出

 昭和41年度卒 若明 

 「数あるトンネル くぐりくぐりて 球磨の平野のひらくるところ」この校歌を、初めて聞いたのは、62年前の入学式で、その6年後の卒業式まで、その節目節目に校歌を歌うと共に、渡小学校は色々な思い出を私に作ってくれました。

 まずは、石水寺への遠足、遠かった~。何せ子どもの足ですから。でも、その分友達と原っぱで食べるお弁当は、格別に美味しかった。また、この日ばかりは、おやつも持参出来たし、食後のゲーム「宝探し」に夢中になり、汗をいっぱいかいた思い出があります。楽しかったな~。

 つぎは、現在ではちょっと信じられない行事です。「球磨んたろう」付近の球磨川の浅瀬で実施されていた、体育授業の一貫「水泳練習」です。いくら、プールが無いとは言え、あの球磨川で何十人もの子供に水泳練習させる行事、今ではちょっと実施出来ないでしょうね。当時、低学年の私は、あまり泳ぎが得意ではなく、もっぱら水遊びに集中していました。だから、これも楽しかった~。

 でも、思い出として一番強いのは、やっぱり運動会かな。小学校の頃は、けっこう走るのが速かったので、運動会は大好きでした。徒競走、障害物競走、フォークダンスもあったかな。恥ずかしながら女性と手を繋いだ記憶もあります。昼食は外で家族と一緒に食べる事ができ、それも巻き寿司とか、いなり寿司等の豪華なメニューばかり。

 また、グラウンドの周囲外側には、色々な出店が来ていて、欲しい物がいっぱいありました。

 それから、昼一番の鼓笛隊の演奏・行進、私は小太鼓を演奏していましたが、緊張して何度か間違ってしまいました。また、運動会の最大の盛り上がりは、やっぱり終盤の地区対抗リレーです。その頃になると、どこのお父さん方も焼酎で良い頃合いになり、皆がトラックの半分くらいまで出て来て、自分の子供や地区の走者に、大きな声と手拭いを振り翳しての応援でした。そんな事が許される時代だったんですね。

 何せ、運動会は学校にとっても、全地区の家族全員にとっても、最大のイベントだったと思います。

 それから、学習の方での思い出は、家庭科実習で「粉吹きいも」と「目玉焼き」を作った事です。多分、その時が生まれて初めての料理体験だったと思います。特に当時、卵はまだ貴重なものとの思いがあったので、真剣に目玉焼きの作り方を教わりました。約28年程前、東南アジアの各地へ出張する機会があり、ホテルの朝食で目玉焼きを目の前で焼いてくれるところがあり、「サニーサイドアップを二個」と注文すると、その作り方が私が渡小で教わった作り方と全く同じであったので、「あっ、同じだ。」とその時の記憶が蘇りました。渡小の教えは世界でも通用しま~す。?? 

 その他、大きな銀杏とどんぐりの木や、土曜日の午後の講堂での映画鑑賞、放送部員の担当内容、通学の登下校の事、等々、沢山の”思い出”が思い出されます。

 最後になりますが、渡小学校「君」、沢山の思い出を作ってくれて「ありがとう」、そして長い間本当に「ご苦労様」でした。

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渡小学校の想い出

 平成9年度卒業生の伊代さんより思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 平成9年度卒  伊代  

 渡小学校について振り返ると、様々な思い出が浮かんできます。校舎、友達、先生方、給食、行事、部活にクラブ活動。私自身の在校時の思い出も、我が子が渡小学校に通い始めたころからの思い出も、いくつも思い返されます。

 卒業し時が経つと、中庭の池が花壇に変わり、ウサギ小屋が体育館へ  の渡り廊下と教室に変わり、インコの小屋や遊具の代わりに中庭が広くなり、在校時にいつも見ていた風景は少しずつ変わりましたが、そのまま残されているものもありました。

 渡小学校の給食室で作られるおいしい給食、蒲鉾板の命札をもって参加した夏休みのプール、読みたい本がたくさんあった広い図書館、昼も夜もたくさん体を動かした体育館や校庭、そこにある大きな銀杏や百日紅の木。ひとつひとつに思い出があり、心残る場所でした。

 社会人になり、小学生時代に担任を受け持っていただいた大園恭子先生、養護教諭の松本須弥先生、事務の北里好子先生とお仕事をご一緒する機会もあり、いつまでも変わられない先生方とお話をすると昔に戻れたような気持ちになりました。

 現在は、校舎も取り壊されましたが、渡小学校で過ごした日々はこれからも大切な思い出として残っていくことと思います。

 渡小学校、本当にありがとうございました。

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あの日あの時

 平成14年度卒業の寛也さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

あの日あの時

 平成14年度卒  寛也

 私は、平成9年に渡小学校へ入学しました。その頃は、元気ハツラツでいた私も、幼いながら少し緊張していたのを覚えています。そこで、6年間の記憶の1ページを開いてみたいと思います。

 私には姉が二人おり、登校するときの短い道のりは一列に並び、姉達、先輩達の大きな背中を見ながら登校していました。学校へ着くと、動物小屋があり、アイガモ、ウサギ、コイ達が出迎えてくれて、動物好きの私を癒してくれました。

 1年生、2年生の時は、落ち着きのない、まさに悪ガキでした。元気がありすぎて、誤って先生を困らせたりと、手に負えないほどでした。

 3年生の時は、火を使ったマシュマロ作りをし、クラスメイトと一緒に楽しみました。

 4年生になると部活動も始まり、ソフトボール、サッカー、器楽等で汗を流しました。体を動かす楽しさ、高揚感を今でも覚えています。一番の想い出といえば、運動会。神様に捧げる演舞で、「御神楽」という踊りを披露しました。練習で筋肉痛になり、とても大変でした。そして、親たちも参加するリレーがあり、子供達より、親達が楽しんでいたような気がします。それと、指折り数えた遠足、学年行事も忘れません。数々の思い出が今でも脳裏に浮かびます。

 この球磨村に生まれ、渡小学校を卒業して20年程経った今、振り返ってみると、「令和2年7月豪雨」の浸水の影響で、学校が解体され、村民が数多く村を離れ、淋しい思いは尽きませんが、やはり、渡小学校へ通い学び、友と触れ合った事を誇りに思うとともに、幸せな時間でした。数ある苦難をくぐりくぐりて、乗り越え、未来の子供達、「球磨村」が希望に満ち溢れ住みよい故郷になっていくことを、切に祈っております。

 楽しい想い出をありがとう、渡小学校

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渡小学校閉校にて

 平成4年度卒業の啓さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校閉校にて

 平成4年度卒 啓

 私が小学校を卒業して、もう何年たったのだろうと思い返してみる。約30年前の事である。まさか自分の卒業した学校がこんな形で閉校になってしまうとは思ってもみなかった。

 この小学校での思い出や記憶を思い返してみよう。私のクラスは1クラス、しかも男子が5人と少なく、いつも学校では5人一緒に行動をしていた。女子に負けまいと体育の時間は、女子対男子でドッジボールをやっていたのを思い出す。それでも、皆仲良く過ごしていた。

 他にも下級生と昼休み時間に体育館で野球をしたり、夏にはプールで泳ぎ楽しんだりと、充実した毎日を送って居たのだなと改めて思った。

 これからにむけて、もう、あの頃の形では無くなってしまうが、この小学校を卒業したことを誇りに、球磨村の民として居ようと思う。

 ありがとう、渡小学校。

 そして、お疲れさまでした。

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渡小学校の想い出

 昭和26年度卒業のスミカさんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の想い出

 昭和26年度卒  スミカ

 昭和21年4月入学式の日、母と一緒に校内に入りました。目の前には、見上げるほどのところに石でできた人が本のような物を持って立っておられました。母に尋ねると、えらいお方で二宮金次郎といわれるお方だと話してくれました。毎朝おはようございますと一礼して通いました。

 1年生の先生は、舟戸地区の方で椎屋リエ先生でした。学校は初めて見るものばかり。そして、友だちもできて楽しい学校生活でした。私達のころは旧校舎もあり、2年生の時の教室でした。中庭があり、大きな池もあり、魚がたくさん泳いでいました。

 上級生になると、校舎のそばに畑があり、いろいろな花を植えたりとうもろこしも植えたりしました。6年生になると運動場に入れる山砂を小川地区の山から二人一組で運びました。毎日1時間位かかりとてもきつかったです。また、畑に植えた花が咲き、とうもろこしに実がついたときは皆で喜び合ったものでした。

 中学校跡地に小学校校舎が出来たとき、二宮金次郎さんはおいでになりませんでした。とても淋しく思いました。

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渡小学校の思い出

 令和2年度卒業の心優さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 令和2年度卒 心優

 私の渡小学校での思い出は3つあります。

 一つ目は、入学式です。私は初めて聞いた校歌を、となりの友達は知っていてとても不思議だったのをよくおぼえています。

 二つ目は、アフタースクールのあすなろです。私はバス通学だったのでよく利用したのをおぼえています。特に低学年のとき、徒歩の人たちと一緒に『日本昔ばなし』や『アラレちゃん』などをみたのをよくおぼえています。

 三つ目は、コロナ禍になったことです。私が小学校5年生の冬からはやりはじめました。一つ上の学年の卒業式には、5年生としてビデオをおくりました。次の年の入学式はできたものの、数日後にコロナのため休校。たまに学校にきて、先生達や友達に会えて嬉しかったのをおぼえています。そして6月ごろからまた通常登校に戻りました。そこからの一ヶ月間は学校の絵をかいたり、切り絵をしたり、英語で自己紹介文をかいたり、自分だけの新聞をかいたり、環境委員として発表したりいろいろなことをしました。7月の初めには、校内童話発表会がありました。6年間、1回も代表に選ばれたことがなかったけどとても楽しかったおもいでです。七月の初めにプールをそうじもしました。私はプールが大好きだったので、来週からはじまるプールがとてもまちどおしかったです。しかし、プールが始まる前に、渡小学校は浸かりました。

 これで私の渡小学校の思い出は終わりです。このあとは、渡小学校の校舎で卒業できなかったけど楽しく卒業できてよかったです。

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渡小学校、そして先生のひと言

 昭和45年度卒業の公朗さんより思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校、そして先生のひと言

 昭和45年度卒 公朗

 「何、これ? 嘘だろ……」

 令和2年7月4日未明、日本三大急流のひとつ球磨川が轟音の奔流となって氾濫した。熊本県の南部、人吉盆地の西の端、峻険な山あいにある球磨村も、球磨川に注ぐ小川が行き場を失い、わずかな平地を蹂躙し ていく。テレビ画面を凝視しながら何物にも抗えない絶望と無力感に苛まれ、思考は言葉を見つけることもできない。

 昨年(令和4年)暮れ、新聞社の依頼で寄稿したエッセイの冒頭です。渡小学校の校歌にある「球磨の平野の開くるところ」も黄土色で覆われ、入所者14名の命が奪われた千寿園、そして隣接する渡小学校の 屋根だけがテレビに映し出されていました。

 このエッセイでは、私が渡小学校1年生の時の担任、大瀬節子先生のことを書きました。

「作文、じょうずだね」

 先生にほめられた忘れられない言葉。十五夜の晩、村で行われた綱引き大会のこと。

『つなひきがおわって、いえにかえるとき、そらには、大きなまん月がかがやいていました』最後の文だけは今でも覚えています。

 この先生のひと言は、大学卒業後、東京で損害保険会社に就職し、定年を迎えたのち、埼玉県飯能市役所の任用職員として第二の人生を送っている今でも、色あせることなく心に刻まれています。

 昨年、新聞社主催の文学賞に初めて応募した小説が正賞を受賞しました。渡小学校でのささやかな感動の記憶が一つの種となり長い年月を経て結実する。感慨深いという言葉だけでは言い尽くせないもどかしさがあります。

 球磨川から程遠くないところにお住まいだった先生の家屋もこの水害で浸水に見舞われましたが、その後人吉市に移住され、ご健在でいらっしゃるとのこと。今年の春、父の一周忌で帰省した際に先生の新居を訪問し、このエッセイの切り抜きをお渡ししました。桜マークの中に「たいへんよくできました」と刻まれた赤いスタンプを押してもらいたくて。

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懐かしきわが母校

 昭和39年度卒業の潤一郎さんに思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

 懐かしきわが母校

   昭和39年度卒 潤一朗

 母の手に引かれ正門を入ると、瀟洒な洋館を思わせるような正面玄関と、横に立つ「二宮尊徳」少年像の印象が今も脳裏に強く残っているわが母校。

 木造二階建ての教室棟と中庭を挟んで講堂が配されていた。講堂での催しで特に思い出すのは映写会で小、中学生どちらか記憶が定かではないが「禁じられた遊び」や「サウンドオブミュージック」が印象深かった。

 講堂の北側、渡中学校側には鎮守の森のような、イチョウや楠などの大木が茂っていたのも懐かしい。

 また、木造校舎ならではのヌカ雑巾での床磨き、「よーい、ドン」で並んで廊下の雑巾がけを競った。冬には弁当を保温箱で温めて食した。

 級友との楽しい語らい。怖さと尊敬を抱いて慕った先生との思い出の数々は今でも宝物だろうか。

 スポーツよりも読書が大好きだった。図書館が隠れ家みたいなもので大抵の書物は読み切っていった。「野口英世」「エジソン」とも出会った。「風の又三郎」「十五少年漂流記」は一気に読み切った。パールバックの「大地」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は見知らぬ人や見知らぬ土地に連れて行ってくれた。

 卒業式の思い出は今でも苦笑する。卒業前のお別れ遠足は近江の原で往路は全員そろっていくのだが、昼食後、帰りはそれぞれの集落班で帰路についた。途中段々畑のところで迂回した通路を通らず段差のある畑から畑にとんだ拍子に竹の切り株が足の親指の付け根を貫通した。卒業式当日、包帯を巻いた右足を引きずりながら卒業証書をいただいた。苦い思い出となった。

 親子三世代に亘り通い学び親しんだ母校の閉校は寂しさを禁じ得ないが、板壁が風雪に耐え木目を浮き出させた校舎が今も目に浮かぶ。わが母校に「感謝!」

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令和2年度の渡小(水害前)

 令和2年度の渡小です。校長は犬童裕美さん、教頭は井口秀明さん。児童数は78人でした。水害前(令和2年7月4日以前)の写真になります。

 

 3年生。

 

 4年生。 

 

 5年生。

 

 6年生。 

 

 緑の少年団結団式。

 

 職員写真。 

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6年間の記憶

 令和元年度卒業の小粋さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

6年間の記憶

 令和元年度卒 小粋

 渡小学校での思い出はたくさんあります。保育園からの友達が転校したり、また、転入してきたりして、出会いと別れがありました。

 特に印象に残っているのは、4~6年の時の想い出です。このころは学級が少しやばかったけど、たのしい思い出がたくさんありました。

 4年生では、学年行事のハンバーガー作りが印象的でした。親と一緒に作ってとても楽しかったです。

 5年生では、少人数での授業が印象に残っています。全員で学習するよりも少人数の方が集中しやすく勉強もはかどったので、あの授業方式はよかったと思いました。

 6年生では、やっぱり修学旅行が印象的でした。一勝地小学校と合同で2日間は、とても思い出になりました。また、長崎を訪れて平和や原爆のおそろしさなどを近くで知ることができました。とても勉強になった修学旅行になりました。

 他にも楽しい思い出、つらかった思い出などたくさんあります。どれもが私の最高の思い出です。いろんな先生方に迷惑をかけた時期もありましたが、それも思い出の一つだと思っています。渡小がなくなっても、この思い出は6年間の記憶として残していきたいです。

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渡小学校の想い出

 昭和46年度卒業生の一郎さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の想い出

 昭和46年度卒 一郎

 渡小学校を卒業して、52年。あの時代、昭和の時代はよかったなと懐かしく思い出されます。箇条書きになりますが、あまりにも多すぎるので、抜粋して書きます。

1 プールがなかったので、小川川での水泳

 石等で水の流れを止め深くし、泳いでいました。ただ、泳ぐより魚を捕まえていた方が多かったです。中には素手でうなぎを捕まえた同級生もいました。

2 体育館がなかったので、講堂での映画鑑賞

 アニメ映画が多かったかな。でも、会場は独特なにおいがして気分を悪くする児童もたくさんいました。

3 廊下の穴に磁石をたらし、色々な物を釣っていました

 木造校舎だったので、2階の廊下のいたる所に穴がありました。その中に磁石を入れ、いろんな物を釣り上げるのが楽しみでした。

4 講堂の横の大きなくすのき登り

 大きなくすのきがあり、中は空洞になっていたので、その空洞の中を通り上まで登っていました。

5 校内の用水路での魚とりと手作り船を流しての競争

 あの頃は焼却施設もあり、用水路で取った魚を焼却の残り火で焼いて食べていたな。

6 いろいろな所に行った遠足

 ①おみのはる ②さどの牧場 ③天狗橋 ④白戸岩・・・

7 楽しく懐かしい昔遊び

 ①ゴム跳び ②ひまわり ③石けり ④手つなぎ鬼 ⑤うっちゃぎ

 ⑥ビー玉 ⑦陣とり ⑧カッポカッポ

8 毎週一回郵便局への預金

 郵便局員さんが来られ、1円でも5円でも100円でもそれぞれ預金していましたね。

9 理科での実験(魚の解剖)

 先生から、「来週は魚の解剖するので、魚を持ってきなさい。」と言われ、近くの川から鮒を捕まえに行っていたな。

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明治24年の渡小

 学校沿革誌によると、明治24年10月に校舎改築落成式が行われています。

 「暴風ノ為 校舎轉覆セシヲ以テ 改築落成式ヲ挙グ」とありますので、暴風のため壊れた校舎を改築したのだと思います。

 平屋 瓦葺 坪数49坪の校舎でした。校舎改築費として、地域30人の方から合計31円15銭の寄付が行われていたことが記録として残っています。

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明治12年の渡小

 学校の歴史を記した「学校沿革誌」によると、明治12年4月に「渡村公立小川小学校新築また中園、立野分校を置く 小川校 平屋 茅葺 坪数30坪」とあります。

 これ以前は、家や倉庫を借用したり、神社を学校として「代用」したりしていたようですので、学校としての建物はこの年が初めてということになりそうです。

 校舎の略図もありました。教室が24坪、その他に教員室、小使室、賄所という文字も見えます。

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たくさんの大切な思い出とともに

 昭和61年度卒業の聡さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

たくさんの大切な思い出とともに

 昭和61年度卒   聡

 ピカピカの校舎と教室。大きな体育館と運動場。新校舎となって初めての新1年生として、小さい体には少し重いランドセル背負い、わくわくしながら登校した昭和56年の春。

 私は、基本的におとなしく控えめで運動も苦手、あまり自分の意見を言わないような、でも多少は勉強が得意という、今でいう「陰キャ」の類の面白みのない子供でした。それでも同級生と一緒になって何かやるのは大好きで、特に班ごとの出し物などがある時はいつも張り切っていたのを覚えています。友達の家や我が家に集まって計画を練ったり、掲示物を作ったりしたのは、本当に楽しい思い出です。

 また、卒業記念品として飼育舎2棟とトーテムポール11本を同級生の親子で作ったのも忘れられない思い出です。特に飼育舎は年月を経ても、修理され改築されながら長い間使われていました。思い出を在校生と共有しているようで、卒業生としてとても嬉しく感じておりました。当時飼育していた鳥で最強だったのが、白い体に真っ赤なたてがみの尾長鶏の雄鶏。通称「ジーコ」。これは当時担任だった松田晃二先生の「コージ」をもじったもので、皆でよく可愛がったものでした。威風堂々、泰然自若としたその佇まいは、実は今でも私の憧れでもあります。

 卒業して年月が経ち、私は現在、田舎の体験交流館「さんがうら」で働いています。4年生の時、村立30周年記念の作文コンクールで、思いもかけず最優秀賞を取ってしまったのですが、私はその最後の一文に「球磨村にずっと住み続けたい」と書き記しました。高校卒業後は村外へ出ていましたが、33歳の時に故郷へ帰参。小さい日の思いを果たすことができ、球磨村で働くことができていることは大きな喜びの一つです。

 記憶を辿れば懐かしい思い出ばかり溢れ出てきます。忘れえぬ思い出をくれた愛する母校、渡小学校。今までありがとう。渡小学校で学び成長できたこと、本当に幸せでした。校歌と校訓を胸に、渡小学校卒業生としての誇りをもってこれからの人生を歩んでいきます。桜咲く校章のように、春色の風を心に吹かせながら。

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平成15年度の渡小

 平成15年度の渡小です。

 校長は西口詳一郎さん、教頭は竹下美保さん。児童数は、内布分校、立野分校合わせ91人でした。

 

 8月2、3日に行われた6年親子キャンプ。鹿児島県の阿久根で行われました。

 

 卒業証書授与式。この年は、地域の方を講師に迎え「紙すき」体験を行い、できた紙を卒業証書にしました。証書の額縁も手作りで、思い出に残る卒業式になったことと思います。

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昭和30年頃の渡の風景

 昭和30年ごろの渡地区の風景です。横島さんに写真を提供いただきました。

 

 茶屋地区にあった横島商店です。

 

相良橋をバックにした1枚。

 

 相良橋を川の南側から撮影したもの。当時、この道は国道でした。

 

 今は流失した球磨川第二橋梁。球磨川下りの船が連なっています。当時は多くの観光客でにぎわっていました。

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平成13年度の渡小

 平成13年度の渡小です。簑田さんから写真を提供いただきました。

 校長は中原英さん、教頭は小山英昭さんです。

 児童数は、内布分校、立野分校合わせ109人でした。

 

 5月22日、23日修学旅行(鹿児島方面)

 当時の担任上井さんから

 球磨村の5つの小学校合同で鹿児島に行ったのですが、2日目の班別自主活動で、麻衣さん、薫さん、雄さん、政博さん、龍司さんの班が電車の中で席を譲り、そのことが鹿児島の新聞で紹介されたのです。記事を投稿された方からはもちろん、記事を読んで感激された人吉球磨出身の方からたくさんのお電話やお手紙をいただきました。当の5人は、「当然のことをしただけ」とその反響の大きさに戸惑っていましたが、地元の新聞社からも取材があり、わざわざ全校児童に夏みかんを届けてくださった方までいました。17人の子どもたちは普段から穏やかで仲がよく、とても心の優しい子どもたちだったので、そのよさが生かされ、たくさんの人を幸せな気持ちにさせてくれたことがうれしく、担任として誇りに思っています。

 

 職員写真

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昭和28年度の渡小

 昭和28年度の渡小(渡東小)3年生の集合写真です。横島さんに写真を提供いただきました。

 校長は並河ミカエさん、教頭は東勝喜さん。担任は木村茂髙さんでした。

 この年度の児童数は、1年生59人、2年生45人、3年生39人、4年生61人、5年生64人、6年生77人という記録が残っています。

 11月10日に「多年の懸案 奉安殿跡に小鳥小屋落成」という記録もありました。

 

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昭和27年度の渡小

 昭和27年度の渡小(渡東小)の2年生集合写真です。横島さんから写真を提供いただきました。

 校長は並河ミカエさん、教頭は東勝喜さんです。2年生担任は、東教頭だったとのことです。横島さんによると、東教頭は昔話がとても上手で、ピアノも上手だったそうです。

 

 こちらは、運動会時の写真でしょうか。

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渡小の思い出

 平成8年度卒業の西門さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 平成8年度卒 西門

 私は、約20年前に渡小学校を卒業しました。渡小が閉校になると聞いた時は、とても驚きました。

 小学校での思い出は部活です。私の頃は、サッカー、ソフトボールがありました。小さい頃から運動するのが好きで、夢中になってボールを追いかけていました。

 休み時間になると勉強をするより、友達と校庭に出てサッカーや鬼ごっこで走り回っていたのを思い出します。

 休日にも学校へ行き友達とたくさん遊んでいました。暇さえあれば、体を動かしていた記憶しかありません。

 勉強が苦手な分、遊んでいた記憶ばかりで、学校の屋根に登って先生によく怒られたりしていました。良い事も悪い事もたくさん学んだ渡小学校時代でした。

 そんな私も今では5人の父となり、そのうち4人の子供たちは渡小の卒業生。たくさんの思い出を作ってくれた渡小学校が閉校になるのはとても寂しいですが、149年という長い歴史を誇りに思います。

 渡小学校、今まで本当にありがとう。

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昭和26年度の渡小

 昭和26年度の渡小です。横島さんに提供いただきました。

 校長は並河ミカエさん、教頭は東勝喜さんでした。

 

 入学記念の写真です。

 この年の学事報告には、

・卒業生70人、進級者1年55人、2年66人、3年78人、4年78人、5年85人、計362人とありました。

他にも

5月29日 チブス予防注射

6月1日  麦刈休業開始

という記述もありました。

 

 この写真は1年生修了間近の写真ということでした。担任は柳瀨靜子さんです。

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昭和31年度の渡小

 昭和31年度の渡小です。横島さんから写真を提供いただきました。

 校長は信國廣市さん、教頭は犬童敏行さん。この年度の卒業生は48人と記録が残っています。

 6年生卒業記念写真とのことです。2列目中央が信國校長、その右側が当時担任の田中六一さんです。

 

 修学旅行でしょうか。写真後ろに「科学博」という看板が見えます。

 

 こちらも修学旅行でしょうか。場所がどこか調べてみましたが、わかりませんでした。

 

 こちらも修学旅行でしょうか。後ろには船のようなものも見えます。

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学校が大きく見えるよ

 昭和44年度卒業の健治さんより思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

学校が大きく見えるよ

 昭和44年度卒 健治

 私の小学校時代、振り返ればいろんな思い出や情景が浮かんできますが、一番脳裏に焼き付いているのが、母と一緒に眺めた「旧渡小学校」、そして、その母校を中心に広がるふるさと「渡地区の風景」です。

 「母さん、学校が大きく見えるよ!」

球磨川の対岸の山の頂から眺めたその風景は今でも忘れられません。

 一級河川(球磨川)に注ぐ支流(小川)の脇に位置していた旧渡小と旧渡中の校舎。その間には広い運動場。側を通る全面舗装開通したばかりの国道二一九号線。並行して走るJR肥薩線。折しもモクモクと白い煙を吐きながらC57蒸気機関車が走っていました。

 小学校の近くには、郵便局や農協。JR渡駅の向こうには、地下・山口地区の田畑が広がっていました。遠くに見える神社の社やお寺。鉄橋や橋(相良橋)、トンネルも・・・。

 私の育った所は、山があり川があり、田畑があり、のどかな集落があり、豊かな緑に抱かれた目映いばかりの自慢できる故郷でした。そして、そのふるさとの中心に私たちの学舎「渡小学校」があったのです。

 その日から37年後、縁あって、私はそのふるさとの渡小学校に勤める喜びを味わうこともできました。

 時代の流れ、自然や社会環境の変化に伴い、今、私のふるさとも大きく変わりつつあります。我が母校の渡小も、今年で149年の歴史を閉じることになりました。

 さびしい思いもありますが、55年前に母と眺めたすばらしい風景に思いを馳せ、渡小で共に過ごした友人や懐かしい恩師との想い出をずっと大切にしていきたいと思います。 

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渡小学校在学時代の思い出

 平成24年度卒業の優希菜さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時代の思い出

 平成24年度卒業 優希菜

 大人になった今振り返ると渡小学校で過ごした日々は素敵なものだったと感じます。私が在籍していたクラスは人数が少なく低学年の頃は毎日のようにクラス全員で運動場に出て遊び回っていました。一番思い出 に残っているのは運動場にあった大きな黒いタイヤです。その場所でよくかくれんぼをしました。低学年の頃には何の苦労もなく隠れることのできたその大きなタイヤも高学年になると小さく感じ自分の成長を感じたことを覚えています。

 その他にも校内でおたまじゃくしやかえる、やもりなどを捕まえてきてみんなで飼育したりと小学生ならではのこともたくさん経験しました。小学校で過ごした6年間はあっという間でしたが、その後の学生時代の中では一番長く一番成長した6年間だったのではないかと思います。渡小学校が閉校すると聞いて最後に一度訪れましたが私が通っていた頃と変わっておらずとても懐かしい思いと同時に寂しさも感じました。これまで多くの小学生を支えてきた渡小学校に感謝したいと思います。

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教育の原点は渡小にあり

 平成14年度ー平成18年度校長の西口さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

教育の原点は渡小にあり

 第39代校長  西口 詳一郎 

 渡小学校長の異動内示を大変嬉しく受け止めた。11年前、派遣社会教育主事として本村教育委員会に勤務し、文化協会設立に向け、村内各地を訪問し、地域の人々の熱い思いに触れる機会が多くあったからだ。そして再び、新任校長としての四年間は、まさに渡小を舞台に学校、家庭、地域が一体となって渡小から発信できた4年間だったと確信する。

 学校週5日制度の完全実施がスタートした平成14年、子供に生きる力を育む土台がすでに渡小にはあった。地域と共にある学校の良さ、素晴らしさをこの4年間たっぷり味わうことができた。

 保護者や地域の学校への協力が年間を通して当たり前のように展開されていた。学校前の保護者の水田を毎年、田植えから収穫、脱穀まで米作り体験の場として提供いただいた。夏休み中の親子美化作業や椎茸駒打ち体験など枚挙にいとまがない。

 地域の方々の学校教育への協力や支援も半端でなかった。その一例として、手作りの卒業証書がある。校区の小川地区に伝わる楮(こうぞ)から和紙を漉く伝統製法を当時六年PTAの協力の下、紙漉製法を受け継ぐ方(本校児童の祖父)が指導者になり、額縁を含め全てが手作りのまさに宝物的な卒業証書が出来上がった。卒業式で額縁に納まった証書を手渡すとき感じたずっしり感は、卒業の喜びだけでなく、保護者や地域への感謝の思いが加わっていたことを今でも忘れない。

 打てば響く教育環境に職員も燃えていた。昼休み、子供達と一緒に校庭で遊ぶ姿が今も目に浮かぶ。

 在任中に迎えた内布分校、立野分校の思い出に残る閉校式は実行委員会の協力の賜物であり、村のアフタースクール「あすなろ教室」のスタートなど時代の流れを実感した出来事でもあった。

 我が家で時を刻む壁掛け時計は当時の地区の老人会から転勤時に頂いた。学校周辺の草刈りを定期的にされ、夏の暑い日など冷たいものを差し入れしていたことへの気持ちと伺い恐縮するばかりであった。

 改めて学校は地域の学校であり、学校へ降り注がれる愛情や支援、協力は尊いとつくづく思う。そこで育つ子供たちは幸せであるに違いないと。教育の原点が渡小には確かにあった。大水害を乗り越えた新たな学校の発展を心から願う。

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ありがとう、渡小学校

 平成10年度~平成16年度、渡小に勤務された上井さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

ありがとう、渡小学校

 平成10-平成16年度 渡小勤務 上井 

 私は平成10年度から7年間、渡小学校で勤務しました。最初に担任したのは1年生10人。前任校は1学年3クラスの学校だったので戸惑いも多かったのですが、かわいい子どもたちと保護者のみなさん、先生方、そして地域の方々に支えられ、楽しくスタートを切ることができました。7年間の間に、1年生から6年生、全ての学年の担任をさせていただきました。

 7年間の中でも特に忘れられないのが修学旅行での出来事です。球磨村の5つの小学校合同で鹿児島に行ったのですが、2日目の班別自主活動で、麻衣さん、薫さん、雄さん、政博さん、龍司さんの班が電車の中で席を譲り、そのことが鹿児島の新聞で紹介されたのです。記事を投稿された方からはもちろん、記事を読んで感激された人吉球磨出身の方からたくさんのお電話やお手紙をいただきました。当の5人は、「当然のことをしただけ」とその反響の大きさに戸惑っていましたが、地元の新聞社からも取材があり、わざわざ全校児童に夏みかんを届けてくださった方までいました。18人の子どもたちは普段から穏やかで仲がよく、とても心の優しい子どもたちだったので、そのよさが生かされ、たくさんの人を幸せな気持ちにさせてくれたことがうれしく、担任として誇りに思っています。当時の新聞記事やお手紙は大切に保管していて、今でも道徳の授業などでこの出来事を紹介しています。

 渡小学校での7年間は私にとって宝物です。20年以上たった今でも、担任した子どもさんや保護者の方だけでなく、当時小学生だった方やその保護者の方も声をかけてくださいます。兄弟姉妹、おじいちゃん、おばあちゃんまでみんな顔見知りで、地域みんなで学校を支えてくださっていました。そんなアットホームな渡小学校が大好きで、その中で私はたくさんのことを学ぶことができました。「渡小学校」という名前がなくなってしまうのはとても寂しいですが、私の中では子どもたちや保護者のみなさん、そして地域の方々の笑顔とともに、渡小学校で過ごしたすてきな思い出がキラキラと輝き続けることと思います。

 最後に、楽しい思い出をつくってくれた子どもたちや保護者の皆さん、地域の方々、先生方、そして渡小学校に「ありがとう」の言葉を贈ります。

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渡小学校在学時代の思い出

 平成10年度卒業の敬明さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時代の思い出

 平成10年度卒  敬明

 私が渡小学校に通っていたのは小4〜小6年で、それまでは内布分校だったので渡小のことを「本校」と呼んでいて、運動会などの特別なイベントでしか行けないちょっと遠い存在でした。

 「本校の初登校日」緊張しながらも、保育園時代の友達との再会にワクワクしました。

 「教室前の階段」生徒が元気に上り下りする姿を思い出す。

 「国旗掲揚台」掲揚は6年生の特別な役目だった。

 「回旋塔、ブランコ」今では考えられない無茶な遊び方したなあ。

 「校庭のコンクリート壁」デジモンバレて怒られたなあ。

 「体育館」フットベースで天井端まで蹴飛ばしてヒーローになれた!

 「運動会の御神楽」上級生から下級生へ教え伝える毎年恒例の伝統演舞。先生が見せてくれた大人の演舞映像がカッコよくて、真似して余計に扇子をクルクル。小技挟んで隠れアピール。

 思い返すと様々な思い出が蘇ってきます。良いことも悪いことも学ばせてもらいました。

 閉校という言葉に寂しさを感じつつも、こんなにまだ楽しい思い出が記憶に残っています。未だに交流の続く友達ができたのも渡小のおかげです。

 『渡小学校』私や皆を見守り育ててくれて、今まで本当にありがとう。

 

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三大思い出

 平成28年度卒業の亜美さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

三大思い出

 平成28年度卒 亜美

 渡小学校在学時の思い出を振り返り、思い浮かんだのは6年生の時の学校生活でした。

 まず、4月14日、16日に熊本地震が起こりました。当時の担任の先生の声掛けでクラスのみんなで自分たちにできることはないかを考え、学校内に呼びかけて募金活動をすることにしました。お金を入れていただく袋から作り始め、集まったお金を数えることまでをみんなでしました。私自身、赤い羽根共同募金のボランティアやユニセフ募金をしたことはありましたが、自分たちが主になって募金活動をすることはもちろん初めてで、募ったお金の合計を知った時の達成感は今でも覚えています。

 5月の運動会では、親子技巧走と組体操が印象に残っています。親子技巧走には、私が一番したかった片栗粉のなかに飴玉を隠した飴食いも入っていて、クラスのみんなの顔が真っ白になった場面は写真のように頭に残っています。組体操は、4、5、6年生で毎日のように練習をしました。ピラミッドでは一番上をさせてもらい、曲に合わせて両手を横に開き、拍手が聞こえた時はとても嬉しかったです。組体操は運動会唯一の協力種目で、する側を見ている側も感動できるため、お気に入りの種目です。組体操を行う学校が減ってきていた中で4年生から6年生までの3年間実施することを決めていただいた先生方に感謝しています。

 卒業前には、タイムカプセルの計画を立て、箱にそれぞれ大事なものをいれました。埋めるのは難しかったため、違う形でのこしました。成人式がとても楽しみです。

 私は正直、小学校の思い出を問われた時、嫌だった思い出の方が思い浮かび何を書こうか悩みましたが、しっかり考えてみると書き収まらないくらいの心に残る思い出があり、今、やっと、色々な意味でも充実した6年間だったことに気がつきました。学習の指導だけでなく人間関係の指導や手助けまでもしてくださった先生方に感謝をし、これからもずっとクラスメイトと励まし合いながらそれぞれの場所で頑張っていきたいです。

 

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渡小学校在学時代の思い出

 昭和39年度卒業の原さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時代の思い出

 昭和39年度卒 原

 午前7時前、門司港発都城行き列車が踏切を通過します。そのとき、踏切番人が閉じた遮断機を確認する様に汽笛が鳴るのを目覚ましに起床、登校の準備を始めます。仕度が整い「行って来ます。」と声をかけて、約1キロメートルの砂利道を歩いて渡小学校に到着。校内の二宮金次郎像が迎え入れてくれます。下駄箱に靴を入れ、教室の椅子にランドセルをかけて着席すると直ぐに友達との会話に夢中になりながらも、友の袖口を見ると黒光りが目立ちます。勿論私の袖口もピカピカ。同年輩の方々はお分かりと思います。

 確か3、4年生のときでした。算数の授業中に先生の目をぬすんで私語をしているとチョークが教壇より飛んで来ました。命中。先生は百発百中の腕前でした。ほとんどの同級生は的になったようで、きっと先生には後ろに目があると感心したものですそんな出来事を夕食時に話すと「お前が悪い」と皆から批判され落ち込みました。しかし、翌日には何事もなかった様に元気に登校したものです。

 そうそう、先生の神業の種類は豊富なもので、他にも揉み上げを良く引っ張られました。今になってみれば当時、両方の揉み上げを引っ張られたことにより、普通のひとよりか顔が巨大化したのかも知れません。ここで一言、「先生、責任を取って下さい。」先生いわく、「悪ガキだったお前が悪い。」で納得。これで一件落着。

 スポーツ面として運動会の徒競走が浮かびます。学年単位の徒競走では、私は常に二位の結果しか残せませんでした。速く走る為にも努力はしたもののどうしても○○君に勝てないことは悔しくもあり、励みにもなりました。楽しかった運動会です。

 もう一つ書き留めます。小学校時代もですが同級生、同学年が事故等で亡くなったことが悲しい思い出として心に刻まれています。

 最後に、痛い思い出もありますが、それ以上に楽しい思い出いっぱいの渡小学校でした。ありがとうございます。

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ピアノとキャンプの思い出

 平成29年度卒業のあこさんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

ピアノとキャンプの思い出

 平成29年度卒 あこ

 渡小について、思い出深いものを二つ書こうと思います。

 一つ目はピアノとの思い出です。私は5年生の時、犬童球渓顕彰音楽祭のピアノ伴奏を務めました。それまで体育館のグランドピアノに触れたことはありませんでしたが、その時の練習でたくさん弾いて慣れたからか、本番でカルチャーパレスのピアノを演奏した時、内心「学校のピアノの方が弾きやすいなあ」と思ったのを覚えています。私自身被災してからピアノに触れていないので、渡小で体育館のグランドピアノや音楽室のアップライトピアノを弾いた思い出は懐かしいものになっています。ピアノだけでなく、合奏をしたことも印象的です。高校生になると授業でも楽器に触れる機会が少ないので、時々ふつふつと合奏したい欲が湧いてくることもあります。

 二つ目は6年生の学年行事で校内キャンプをしたことです。普段学校でできないことができて楽しかったのを覚えています。特に覚えているのはプールで遊んだことと夜に肝試しをしたことです。普段の授業や夏休みのプール開放ではできない、水鉄砲や浮き輪を使って遊べるのがとても楽しかったです。肝試しは、ただでさえ夜の学校に入るという行為がわくわくするのに、その上肝試しができるということに心躍りました。昼間毎日のように見ている風景でも夜だと少し怖くて、職員室からランチルームに続く真っ直ぐな廊下が、夜に見ると廊下がずっと続いていくようでぞくりとしたのを覚えています。さらに、自分たちが校内を回るだけでなく、脅かす側もできたのが本当に楽しかったです。

 私は被災前、渡小の目の前に住んでおり、卒業後も休日に友達と遊ぶこともあったので、思い出は選びきれないほどたくさんあります。そして、その全部の思い出が大切な思い出です。

 最後に。運動会の最後で恒例だった「お誕生月仲間」が大好きでした! 運動が苦手な私にとって、運動会の最後のプログラムに行う「お誕生月仲間」は楽しかったのを覚えています。今でも当時の動画を見返しては、またみんなで踊りたいなと思っています。

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渡小学校在学時代の思い出

 平成8年度卒業の拓磨さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時代の思い出

 平成8年卒業生 拓磨  

 内布地区出身の子供達は私達の頃は小学3年生までは内布分校に通い、運動会等の行事事があるとバスで渡小学校へ行くことが楽しみでした。小学校へ行くと普段会わない同級生達との触れ合いが新鮮であり分校と違う小学校の大きさや広さに心が踊ったことを覚えています。

 4年生になると自転車で国道を上級生達と通学することになるのですが道程の遠さと坂道等の多さにウンザリしながらの通学はきつくもあり楽しくもありました。その頃から同級生達との触れ合いが増え喧嘩をしたりしょうもない事で笑い合ったり色々な体験をしました。図書コーナー横の広場の飛び石で陣取りや校舎全部を使った鬼ごっこ、運動場でのサッカー等今でも鮮明に覚えています。

 渡小学校での一番の思い出は6年生の時に同級生達とサッカーの郡市大会で優勝出来た事です。私はメインでの活躍ではなかったのですが6年生担任で監督の大柿先生やワザワザ私達の為にユニフォームを新しくしていただいた中川校長先生のおかげもあり、小学校での最高の思い出になりました。

 令和2年の豪雨災害の際に自分の思い出の中の小学校と現実の小学校の惨状に胸が締めつけられる思いでした。そのうちに少しずつ周りの景色が復興に向かう中、取り残されたような小学校の姿は災害の甚大さを私達に教えてくれました。今では校舎や体育館も無くなり、思い出や写真の中でしか渡小学校を見ることは出来ませんが色々な経験や思い出をくれた渡小学校を忘れることはありません。ありがとう。渡小学校。さよなら。渡小学校。

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渡小学校の思い出

 平成27年度卒業生の長船さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校の思い出

 平成27年度卒 長船

 ランドセルを背負って通った渡小学校六年間の思い出はたくさんあります。

 1つ目は運動会です。組体操で一つの技をみんなで作りあげたり、応援団でたくさん声を出したり、顔を真っ白にしながら飴を見つけたり、とても楽しかったです。六年生の時には、閉会の言葉をたくさん練習して言ったのを覚えています。

 2つ目は、親子キャンプです。スイカ割りや校内で肝試しをしました。夜の学校は初めてでワクワクしたり、いろんな仕掛けに怖くて叫んだり、たくさん笑ったのを覚えています。

 3つ目は、卒業記念で遊具にペンキを塗ったり、花壇に自分たちの名前を書いたりしたことです。寒い中ペンキが付くのも気にせずみんなで色を塗りました。名前を書くのはとても難しかったです。卒業後も名前を書いた花壇の前で友達と一緒に写真を撮ったりして、いい思い出となりました。

 長いようで短かった6年間、渡小学校とみんなと過ごせてよかったです。

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夢が生まれた場所

  平成2年度卒業の川口さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

夢が生まれた場所

 平成2年度卒 川口

 万人の心に原風景があるとするなら、私のそれは山の蒼と川の碧。数あるトンネルをくぐりくぐりて、ひらくる平野に建つ薄桃色。

 故郷へ帰ること、言葉を生業とすること。二つ夢を叶えた先に再び縁があり、気づけば在校6年間よりはるか長い歳月を共に歩ませていただいた。私にとって渡小学校は思い出であり、同時に進行形の現在地でもある。

 小学生時代の私はよく転んだ。遠い栗林から歩く…ことは少なく、多くは親の送迎だったが、多目的集会施設の前で車を降り、正門までの直線道路で転んでいた。初めてのプールは準備体操で負傷し無念の見学。初めての掃除場所だった低学年のトイレでは用具入れの重い扉に足をぶつけ、親指の爪がはげた。

 当時の苦手科目は実は国語。登場人物や作者の意図を探り探り読むよりも答えがある算数や理科、社会の方が楽しかった。同じ理由で正解が明確な漢字と文法は心地よかった。

 漢字に覚醒したのは4年生。授業冒頭5分間の10問テスト。毎日一枚ずつ増えるザラ紙の満点用紙がおそらく人生最初の成功体験。

 4年生は作文の授業も印象深い。架空の地図から物語を創作する。口数は多いが口下手な私は話すより書く方が自由になれた。ちなみに先生からは内容ではなく書く速さを褒められたが、その一言が人生の分岐ごとに私の行く先を照らし、現在地まで導いてくれた。

 在校6年と記者22年で通算28年生。「故郷に錦」にはほど遠いが自らも被災した中、母校や故郷の変容に心を痛めながら「伝える」ことの意義を問い、遠い日に薄桃色の校舎でつかんだ夢を今なお握りしめてペンを執る。

 余談、卒業後に取材で訪れた母校はあれほど転んだ渡り廊下の段差や爪を強打した扉がなくなっており、何気ない日常の記憶とバリアフリー時代の到来に心が温かくなった。

 諸行無常、春や昔の春ならぬ。それでも渡の里に149年、たくさんの出会いと輝く日々をくれた渡小学校にとこしえの感謝を。

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私の思い出

 昭和34年度卒業の今村さんから思い出を寄せていただきました。今村さんには、閉校実行委員会の委員としてもお世話になっています。ありがとうございました。

 

私の思い出
 昭和34年度卒 今村


 砂利道の国道219号線から、渡駐在所の横を通って50メートル、正面玄関前にはモミジの木、横には二宮金次郎の立像が、玄関を通り廊下を隔て左に職員室、右に校長室、廊下の左に池があり、右に講堂があった。裏玄関の外には国旗掲揚台と椎木の大木が根を張り、中学校と共用のグラウンドが広がっていた。校舎の東西に児童用の入り口があり、靴箱とトイレが同じように設置してあった。別棟で当直室がありその当直室が小学校時代、私の一番の思い出である。
 私の場合は1年から3年まで佐無田敬子先生が担任だった。クラスの皆をご自宅に招待していただき、初めてのサラダをいただいたのは忘れられない味として今でも心に残っている。
 4年生の時は、田中六一先生にお世話になった。不衛生だった私に「しらくも」が出来て、実家が薬局をしておられた先生に薬を買ってきてもらいそれで治した事もあった。
 5、6年生の時は荒毛卯来男先生で、学校での諸作業を一手に引き受けておられたようで、我家が農家であったせいか、スコップや運搬用の籠をもって来るように言われ、ごみ処理用の穴掘をしたものだ。体育の授業中の出来事だったと思われるものの、今となっては穴掘りの授業だったのかもしれない。別のクラスはソフトボールをしていて、羨ましかったことを覚えている。
 荒毛先生はよく当直をされていた。土曜日の夜には泊りに行ったもので、布団の敷き方、たたみ方まで教えていただいた。夜間の校舎の見回りは怖いながらもスリルがあった。懐中電灯をもって一人で行かされた。肝試しみたいで一階はそうでもなかったものの、二階は玄関の真上に小さな部屋があり特に怖かった。先生は先回りをして何処からともなく出てきて大声で脅かしをされた。
 子供ながらに他愛もない事であったが、喜寿を前にして私にとっては忘れられない思い出で、人生の基礎を築かせてもらった出来事であったと思われる。

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思い出

 昭和23年度卒業の冨永様より思い出をいただきました。また、閉校に際してご寄付もいただいています。誠にありがとうございました。

 

思い出

 昭和23年度卒  冨永

 渡小学校廃校の知らせを聞き、故郷の学校も例外ではないと実感した。戦争真っただ中、食糧不足を補うため校庭を改良してさつま芋畑に、管理は上級生の仕事だったように記憶がある。空襲警報の知らせが頻繁になり学校は分散教育になり低学年は各集落で寺子屋学校となった。

 全校生が学校に戻ったのは、私が小学校3年生(昭和20年)の2学期からと記憶している。当時は生徒数も多く楽しかった記憶はあるが勉強した記憶はありません。

 

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渡小学校閉校に寄せて

 昭和60年度卒業の奥添さん(旧姓 冨永さん)より思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校閉校に寄せて

 昭和60年度卒 奥添(旧姓 冨永)

 令和5年8月、更地になった渡小学校跡地に立つと、万感胸に迫るものがあり、そこで心にうつりゆくよしなし事を、書きつけてみようと思うに至りました。

 私が小学校1年生の時に、渡小学校は新校舎に変わりました。入学時は木造の2階建て、二宮金次郎像の立つ昔ながらの趣のある校舎でした。歩くとギュッギュッと木のきしむ音のする階段や、教室の窓から見えたモクレンの花の白さを今でも鮮明に覚えています。

 そんな愛着のあった校舎が取り壊され、運動場の向こうに建ち始めていた新しい校舎へ移ることが知らされたときは、新校舎に変わる嬉しさよりも大好きな木の校舎との別れの寂しさの方が大きく、児童椅子をそれぞれが抱えての引っ越しの日は涙すらこぼれたほどでした。でも、そんなセンチメンタルを軽々と吹き飛ばす魅力を、新しい校舎は持っていたのです。

 一番気に入ったのは図書室でした。床が高さの違う二段に分かれていて、高いフロアから低いフロアへ降りていくとその先には人工芝の広場が広がっていました。芝生で寝転がりながら本を読んだり、おしゃべりを楽しんだりできました。当時としては、いいえ今でも最先端のデザインだったと思います。

 そんな素敵な空間を与えてもらえたことで、私は図書室が大好きな、本が大好きな子どもになりました。そんな私が不思議なご縁で今は福岡の小学校で図書館司書として働いています。本に囲まれた日常の中での私の原風景は渡小学校の図書室にあります。

 形あるものはいつか壊れ、なくなることは世の常なれど、渡小学校がなくなる喪失感は想像以上のものでした。けれど、渡小学校に限らず、皆さんがもっと大きな喪失を経験し、乗り越えて、あるいはその傷を胸に抱いたまま、それでも心を奮い立たせて日々を過ごしていらっしゃることを思えば、私も強くあらねばと思えます。

 こうやって文章に綴ることで思い出を形にして、その思い出を糧に前を向いて歩いて行こうと思います。

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投てき板の縁に感謝

 昭和63年度卒業の有村さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

投てき板の縁に感謝

 昭和63年度卒業生代表 有村 

 私たちの卒業の証「投てき板」。皆さんはご存じでしょうか。渡小学校運動場の低学年用プールの前ほどに立っていたボール当てのことです。これは、私たちの卒業記念品として、当時、6年担任と保護者そして児童で作り上げたものです。保護者の方々を中心に、ブロックを積み上げて、コンクリートで表面を固め、全ての作業を手作りで行ったのを覚えています。その裏面には、6年生の思い出である修学旅行や自画像等、プラスチックボードに絵を描き、それを彫り、そして色を塗りました。ボードは全部で50枚ぐらいあったと思いますが、それぞれに割り当てて制作しますので、繋ぎ目や色合いなどみんなであれこれ意見を言い合いながら取り組みました。完成までにかなりの時間を費やしたので、「投てき板」の裏に貼りつけた時の喜びはとても大きかったのを覚えています。

 その後は、的の模様や裏面の作品の劣化に伴い、これをどうにかしようと、度々、同級生で集まったり、同窓会を開いたりしました。6年時担任の先生は沖縄にいらっしゃったので、都合をつけていただき、その度に帰省していただきました。私たちにとって、この「投てき板」の存在が、人と人の縁をつなぐ大切なものであり、大きな存在であることを再認識していきました。

 また、令和2年7月豪雨の水害で渡小学校は大きな被害を受けましたが、この「投てき板」は何とか原型を保っていました。私たちの大切な思い出が残ったことに安堵感もありました。しかしながら、この「投てき板」も立て壊しとなり、役割を終えました。約35年間、多くの後輩や地域の皆様に活用されたことでしょう。そして、令和6年度には子供たちの学び舎として「球磨村立球磨清流学園」が開校されます。母校は閉校になり、子供たちの未来のために新しい歴史が始まろうとしています。

 今年3月、6年時の担任が定年退職を迎えられ、同級生で退職祝いを開催しました。当時の写真や思い出話で楽しい時間を過ごしましたが、私たちの中で「投てき板」に何か一区切りが付いたような不思議な思いもありました。これまで「投てき板」がつないでくれた縁に感謝しながら、そして、これからも恩師や保護者を大切にして、あの時の心を忘れず仲間との絆を深めていきたいと思います。

 最後に、渡小学校閉校実行委員会の皆様をはじめ、関係の皆様に御礼と感謝を申し上げます。そして、夢や希望を育んでくれた「球磨村立渡小学校」ありがとうございました。

 

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平成17年度の渡小

 平成17年度の渡小学校1年生の写真です。日當さんから提供いただきました。

 当時の校長は西口詳一郎さん、教頭は鵜口健治さんです。児童数は89人でした。

 この写真は、当時1年担任だった職員から子供達一人一人に配られた「思い出アルバム」の一部になります。担任の愛情が伝わってくる素敵なアルバムです。

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渡小在学時代の思い出

 平成12年度卒業の岡本さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小在学時代の思い出

 平成12年度卒 岡本 

 私は山口地区で生まれ育ち、地下・今村・島田を辿る通学路で渡小に通っていました。校舎の端々にあった懐かしい景色や空気が今でも鮮明に思い起こされます。そこで見たもの、聴いたもの、感じたもののすべては、私という存在の奥底にある土台となっています。

 大学進学のため一度球磨村を離れましたが、球磨村役場に入庁することとなりふるさとに帰ってきました。入庁後、球磨村青年団に入団し、体育館のステージを借りて文化祭の合唱の練習をしたのも印象深いです。団活動をきっかけに、同時期に入団していた妻との出会いがありました。妻は渡小に勤務しており、渡小という存在がたくさんの偶然を生み、私達を引き合わせてくれたことが分かりました。やはり母校という存在は特別な力を持っていると思います。

 そんな学び舎は豪雨の脅威により解体されてしまいました。もう見ることも入ることもできませんが、記憶とともに生き続けていきます。ありがとうございました。

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渡小学校在学時の思い出

 平成29年度卒業の青山さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時の思い出

 平成29年度卒 青山

 私が渡小学校で過ごしてきた6年間での思い出は、数えきれないほどありますが、特に印象に残っているものを二つほど取り上げたいと思います。

 一つ目は、給食室とランチルームでの思い出です。私が入学したばかりの1年生の時は、給食室があって、そこに給食を受け取りに行っていました。それが2年生になった頃には給食室がなくなって、一勝地の給食センターから給食が届くようになりました。そして給食室があった場所は改修されて、「ランチルーム」という場所ができました。当時は給食室がなくなってさみしい気持ちもあったのですが、ランチルームができてから、他の学年の人とも一緒に給食を食べたり、先生たちといろいろなことを話したりするようになり、私にとってとても楽しい場所でした。

 二つ目は、あすなろ教室での思い出です。あすなろ教室は、小学校低学年の時に高学年の人たちの授業が終わるまで待つ場所で、そこで宿題をしたり、宿題が終わったら、折り紙、お手玉、あやとりなどしたりしてよく遊んでいました。夏休みには、野菜の収穫や茶道の体験等、特別なイベントもあり、とても楽しく、居心地の良い場所でした。今思うとなかなか他の学校には、あすなろ教室のような小学生たちの放課後のたまり場はなかったのではないかと思っています。そういう意味でもあすなろ教室は私にとって貴重な思い出の一つです。

 他にも、どんどや、こうぞの皮むきなど、渡小学校での思い出はたくさんありますが、子供時代の6年間を歴史ある渡小学校で過ごせたことはとても自分を豊かにしてくれたと感じています。場所と名前は変わりますが、これからも渡小学校らしさを子供たちが見せてくれることを期待しています。

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想い出をありがとう

 昭和45年度卒業の内布さんより思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

想い出をありがとう

 昭和45年度卒 内布

 私は3年間を内布分校で過し4年生から本校へ通っていました。栗林までは自転車で、その後徒歩で行っていました。当時は木造2階建ての校舎でプールも体育館もなく児童数は300人位だったでしょうか。校庭には大きなくすの木が2本有り夏はその木陰で遊んでいました。他にくすの木や銀杏の木があってその実をそばを流れている用水路で洗って持って帰ったりしました。手がなんともいえず臭い思いをしました。校舎の側には大きな池があったのを覚えています。

 5年生になり新任の先生との対面は石水寺の見知り遠足の時でした。まだ教師になられたばかりの若い男の先生で私達と陣取りゲームをしたりしてとても運動好きな先生でバスケットボールをやられていたとの事でした。その先生は5、6年も受け持って貰いました。

 学校の近くに下宿されていて、下宿先からよく朝ごはんをもってこられていました。悪い事をしたならば鼻弾きの刑が待っていて男女を問わず鼻を先生が指ではじくのです。鼻血が出る事もありました。今では考えられない体罰ですね。休みの日には弁当をもってその先生と佐土野牧場や高塚山など行ったり下宿先へも遊びに行ったりしていました。その先生とは今でも時々お会いしています。

 5年生の時は臨海学校で天草の野釜島へ一泊、6年生の時は宮崎鹿児島へ二泊三日の修学旅行でした。その時泊まった旅館の名前は今でも覚えています。5年生まではプールも体育館もありませんでしたけれどもそれなりに不自由なく水泳は近くの川で雨の日は講堂での体育授業ができました。分校も木造校舎もなくなり寂しい思いもありますけれども、これも時代の流れと思い新しい環境で児童達が伸々と育んで行ってほしいものです。

 色々な思い出と数々の歴史を刻んだ渡小学校ありがとう。

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平成27年度の渡小

 平成27年度の渡小です。当時6年担任の永田さんから写真を提供いただきました。

 校長は大園恭幸さん、教頭は田代隆徳さんです。児童数は109人でした。

 

 当時の職員写真です。

 

 夏のキャンプの様子でしょうか。

 

 遊具前での集合写真

 

 学習発表会

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昭和38年度の渡小

 昭和38年度の渡小(渡東小)です。内布さんより写真を提供いただきました。

 校長は尾方等さん、教頭は福本志良さん。6年1組担任は内野学さん、6年2組担任は荒毛卯来男さんです。

 児童数は、立野分校、内布分校合わせ405人でした。

 

 修学旅行での1枚です。宮崎、鹿児島方面に2泊3日の旅行でした。この年の6年生は83人です。

 

宮崎県青島での集合写真

 

 卒業式は3月29日に行われました。

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昭和33年度の渡小

 昭和33年度の渡小学校(渡東小学校)です。内布さんより写真を提供いただきました。

 当時の校長は永椎武德さん、教頭は犬童敏行さん、1年1組担任は山崎百合子さん、1年2組担任は渡辺咲子さんでした。

 児童数は、立野、内布両分校を合わせ521人でした。本校の児童数が最も多かった頃と思われます。

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大好きだった渡小学校

 平成8年度卒業の立野さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

大好きだった渡小学校

 平成8年度卒 立野  

 令和5年度をもち、渡小学校が閉校する事となり、そして今は更地となってしまった渡小学校跡地を見ると、寂しさを実感しています。

 私は、渡小学校の立野分校に1年生から4年生までの4年間、5、6年生の2年間を渡小学校へ通いました。

 分校にいた頃は、渡小学校の事を「本校」と呼んでいた記憶があります。運動会の練習や、卒業式の練習の時には本校までタクシーで行っていました。

 普段は少人数で過ごしている分校の生徒にとっては、大人数の本校へ行く時は、たくさんの友達と会える楽しみはありましたが、少しドキドキしたものです。

 5、6年生の時は本校まで自転車通学をしました。登校時は坂道を下るので、15分ほどで学校へ到着していましたが、下校時は上り坂を40分ほどかけて帰りました。帰り道では2カ所ほど休憩場所を決めていて、少し休憩しながら帰っていたのを覚えています。

 また、私は渡小学校の校歌が大好きでした。犬童球渓さんが作曲された校歌は他にもあるみたいですが、犬童球渓さんが作詞も作曲もされている校歌は珍しいと聞いた事があります。私は、大人になった今でも渡小学校の校歌がスラスラと歌えます。そして、渡の情景が浮かんでくる歌詞の意味を改めて感じています。小学校最後の運動会では、終わる頃に雨が降りだしたため、テントの中で校歌の指揮をした事も思い出の一つです。

 令和6年度からは「球磨清流学園」として、また新たなスタートとなりますが、渡小学校での楽しかった思い出はずっと大切にしたいと思います。「渡小学校」本当にありがとうございました。

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渡小学校時代を振り返り

 平成22年度卒業の髙永さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校時代を振り返り

 平成22年度卒 髙永

 私は、小学5、6年時を過ごした渡小学校時代を振り返ります。一勝地第一小学校から渡小学校へ転校した私は、同じ村内でも全く別の土地に転校するかのように緊張して初日を迎えました。席に着くと、すぐに多くの友達が話しかけてくれたことが印象的です。

 渡小学校でも、多くの行事に参加しました。田植え体験に小川川での水中観察、姫戸小学校との交流など、今となってはどれも貴重な体験であることを実感します。この貴重な体験の中で、強く記憶に残っていることが二つあります。

 まず一つ目に、何気ない登下校の時間です。渡の実家へ帰る度に、登下校を思い出します。私は、地下班でしたが、登校時は山口班や峯班などと合流しながら登校しました。下校時は、各々の自宅の方面へ分かれるまで、友達との会話が尽きません。また、学校裏の階段を駆け上がり、ピアノの教室に通ったこともかけがえのない思い出です。このように、私たちが安全に登下校ができ、のびのびと生活できたことは、地域の方が朝夕見守って下さったおかげです。どの地区においても、温かみあふれる球磨村が私は大好きです。

 二つ目に、学年行事の親子キャンプです。私たちのクラスの保護者の方は、パワフルかつ協力的な方ばかりでした。キャンプ中には、様々な体験をしたはずですが、夜のバーベキューで子ども以上の盛り上がりを見せる保護者の方の印象が強く、とにかく楽しかったという記憶だけが残っています。一つ一つの行事に熱心にご参加くださる保護者の方のおかげで、楽しく非常に充実した小学校生活でした。

 令和2年の7月豪雨では、渡小学校も甚大な被害を受けました。校舎は無くなってしまいましたが、沢山の思い出として心に刻まれています。今、球磨村を離れ、新たな生活が始まりましたが、球磨村の自然の中で育った素直な気持ちを忘れず、球磨村を誇りに思い精進して参ります。

 このような機会をいただき、渡小学校時代を振り返ることができたことに感謝いたします。球磨村の復興を心よりお祈りいたします。

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記憶を辿って

 昭和38年度卒業の内布さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

記憶を辿って

 昭和38年度卒業 第1230号 内布

 

 昭和33年度入学記念の集合写真が手元にあります。当時の学校名は渡東小学校、木造校舎玄関の前で保護者と一緒に撮らせてもらったものです。

 昭和36年に渡西小学校が廃校になったため渡小学校と改称され、現在に至っています。写真には立野分校14人、内布分校10人のあどけない顔があります。

 立野分校は4年生まで、内布分校は3年生までと決められており、それより上級学年に進むと本校に通うことになります。

 私が入学したころの内布分校の児童数は25人程だったと思います。先生は一人、分校に隣接した教員住宅に家族で住んでおられました。女性の先生で優しく時には厳しい先生でした。

 当時内布分校では給食が行われており、保護者が交代で調理にあたっておられました。コッペパンと脱脂粉乳の味と香りが今でも思い出されます。

 秋の運動会が近づくと、上原田町の馬氷集落の手前から馬氷川を渡り、山越えして立野分校に遊戯の練習に行きます。何回通ったでしょうか、覚えていません。

 楽しい3年間が過ぎ、4年生なると本校に自転車で通うことになります。4年生は二クラス、私の担任は一勝地から通勤しておられた女性の先生、少し年増の小柄な先生でした。4年生になってすぐに学級委員長をさせられましたが、本校の同級生には知り合いもおらず、慣れるまでには時間がかかり、おまけに帰路は上り坂ばかりで疲労困憊、宿題もほとんどして行かなかったため、1学期の通信簿にはとうとう学級委員長の資格無し、と書かれてしまいました。大変厳しい先生で、竹の根鞭で机を叩き、中には教室の中窓から逃げ出す友もいました。後年仕事でお会いした時、先生は八十歳を過ぎておられましただ、私のことを覚えておられ当時のことを懐かしみ思い出話をしたことがあります。

 5年生では、男性の先生、とても真面目な先生でしたが、悪いことをした者は教壇に立たせて諭し、時には思わず手が出て、という一面もありました。

 6年生では大型二輪で通勤されていた男性の先生、特に覚えているのは授業中に今村地区まで廃鶏を買いに行かされたこと、当直の晩酌のお供だったのかも知れません。

 6年生の集合写真には42人が写っています。2クラス合わせれば80人を超えていたようです。中には名前を覚えていない人、亡くなった人もいます。辿れる記憶も少なくなってきました。渡小の歴史が閉ざされることはとても残念ですが、私の心の中には古い木造校舎と楽しかった6年間の思い出が残っています。

 私達の小学校時代は、生活は豊かではありませんでしたが、心豊かに過ごせた時代だったと思っています。

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大東亜戦争と小学校

 昭和20年度卒業の鳥飼さんより思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

大東亜戦争と小学校

 昭和20年度卒  鳥飼

私は、昭和15年4月渡村立渡東尋常高等小学校に入学。翌年昭和16年12月8日米英との戦争が始まり国民学校となる。教科書も戦争一色となって行き、毎日の様に出征兵士を全校生徒で渡駅まで見送りに行き、毎朝教育勅語を読み、毎月1日には一王子神社へ、戦勝と出征兵士の武運長久祈願に行った。靴も配給制となり、わら草履か裸足で砂利道を歩いて行った。

 4年生になると、分散教育が始まった。水篠と糸原の1、2、3年生は、水篠の個人宅を二間借りて寺子屋教室。4、5、6年生は、水篠地蔵堂の庭で青空教室となり、雨の日は木炭小屋に藁筵を敷き、高等科担任の柳詰先生がわら草履の作り方を教えて下さった。

 地蔵堂の裏山に自分達で防空壕を掘った。昔は墓地だったのか、人骨が沢山出てきた。

 春になり茅が伸びると、軍馬の餌にと近江の原高原に鎌で茅切りに行った。秋には軍服の中綿に使うのだと、薄の穂先を取りに行った。また、都会の人達の食糧にするのだと、皆で木の実拾いに蕨谷まで歩いた。

 近江の原には渡小学校の畑があり、からいもの蔓を植え、夏の暑い日にからいも畑の草取り・蔓返し、秋には収穫したからいもを大きなザルに入れ、二人一組になって天秤棒で担ぎ細い石わら路を峰まで運んだ。

 学校には陸軍の兵隊さん達が駐屯しておられ、校庭に並べられた藁人形を「敵と思え」と教えられ、竹槍で突く練習をした。

 毎日の様に出征兵士の留守家庭の麦刈りや田植え等の奉仕作業だった。飛行機の燃料にするのだと、奥山に鶴はしを担ぎ松根掘りに登った。

 沖縄から学童疎開で、金城さんと言う同級生が居られた。近江の原の田んぼに居る時「空襲警報。グラマンだぁー。みんな溝に伏せろー」と、先生が叫ばれた。

 奉仕作業と、夜は灯火管制で暗く、勉強をした記憶がない。

 昭和20年8月15日終戦を迎え、6年生の2学期から全員、渡小学校に帰ったが、それまで戦時一色だった教科書を、墨で真っ黒に塗り潰した。奉仕作業ばかりで勉強していない為、6年生で女学校を受験する生徒は、毎晩、当直の先生が勉強を教えて下さった。6年生を卒業するまで、渡小の校歌を習った記憶がない。軍歌ばかり歌っていた様に思う。

 

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昭和45年度の渡小

 昭和45年度の渡小です。岡本さんに提供いただきました。

 校長は山村秀夫さん、教頭は辛川正興さん。児童数は、立野分校、内布分校合わせ300人でした。

 

 修学旅行。5月7日(9日まで)と記録にあります。当時は二泊三日の旅行だったのでしょうか。

 

 遠足。見知り遠足だったら4月13日。秋の遠足だったら10月30日、お別れ遠足だったら3月15日と記録が残っています。

 

 雪の日。みんないい笑顔です。

 

 学習発表会でしょうか。背景の絵がすばらしいです。

 

 卒業記念写真。6年2組の担任は橋本巌根さんです。

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セピア色の想い出

 昭和44年度卒業の鵜口さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

セピア色の想い出

 昭和44年度卒 鵜口

 私は、昭和39年に渡小学校へ入学しました。木造二階建ての校舎で、玄関横では、二宮金次郎の銅像が迎えてくれて、中庭があり、池では鯉が泳いでいたりと、半世紀以上経ちますが、目を閉じると昨日のことのように想い出されます。そこで、少しだけ「記憶のアルバム」を紐解いてみたいと思います。

 私は、双子で兄がいます。入学時は、1クラス36名の2クラスでした。私と兄は、別々のクラスとなり、とても悲しかったことを思い出します。廊下には弁当を温める箱が置いてあり、中からたくあんの独特の匂いが漂っていました。どこの家庭でもそうであったように、当時の食生活が偲ばれます。

 3年生になり給食が始まりました。まだ、パンと脱脂粉乳の時代でした。また、指折り数えた遠足も忘れられません。上級生の数人が、先行して現場に行き、品物の名を書いた紙を隠しそれを探し当てる、いわゆる「宝さがし」です。それに、昼食時の余興の数々、私は、兄と友人3人で、前年のレコード大賞、美空ひばりの「柔」を歌いました。ごほうびの文房具をもらい、嬉しかったものです。そして、極めつけが運動会、地区対抗リレーと親子リレーでの異様なまでの盛り上がり、地区の団結、親子の絆をこどもながら感じたことでした。まだまだ思い起こせば、厳しくも優しかった恩師の話など尽きませんが、このへんで。

 時代の変遷を経て、今、解体されている渡小学校、私の子供達の学び舎でした。校歌には「球磨の平野がひらけて、多くの人を迎え育むところ」という歌詞があります。しかし、令和2年の豪雨災害で、風景は一変し、住まいをなくされ、やむなく渡を離れざるを得ない人達もおられます。それでも、様々な思いを抱き、時は確実に過ぎて行きます。将来の子供たちの学校生活が、明るい未来で彩られ、「思い出のアルバム」として綴られることを切に願っています。

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渡小思い出

 昭和56年度卒の佐藤(横川)さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

渡小思い出

 昭和56年度卒 佐藤(横川)

 昭和51年、およげ!たいやきくん大ヒットの年に渡小学校へ入学しました。1、2年担任は大瀨節子先生、3、4年は大槻佳代子先生、5、6年は桑原弘幸先生でした。

 5年生までは木造校舎で、冬には大きなストーブが教室のまん中に陣取り、その近くの席になると熱いくらいでした。それから、旧校舎で覚えているのは、玄関横、二宮金次郎像の近くに金木犀の木があり、私はその匂いがとても苦手で大人になっても金木犀が匂うとあの頃の自分を一瞬で思い出していました。

 小学校行事での思い出はやはり運動会でしょうか。親子対抗リレーがあり、父母、兄とで走っていました。第三走者の母で先頭におどり出るもアンカ―父で最後抜かれる、のパターンでありました。最後は全校生徒で球磨村音頭、帰ると坂道を上がって島田集会所で打ち上げ。ヘトヘトだけど充実感満載でした。

 6年生になって新校舎へお引越し、自分の机と椅子を運んだと思います。広くてきれいで感動したのを覚えています。東側にあった給食室へ給食道具を返しに行くと、給食のおばちゃん達が「五郎(野口五郎に似ているとそう呼ばれていました。女子ですけど)お菓子食べて行け」と休憩室で一緒にお茶させてもらっていました。いい思い出です。

 給食時間で思い出すのは、男子達が「ピーマ~ン」と言って牛乳を飲んでる友達を笑わせていました。(なぜピーマンだったのでしょう)男子はばっかだな~とただただ大笑い。ごちそうさまのあとにこれまたなぜか「ヒデキー」と叫んでもいました。なので今の我が家では娘がごちそうさまを言うとすかさずヒデキーをつけ加えております。

 放課後は陸上部の練習、たまに男女でサッカーや陣取りをやっていました。

 書ききれない程の思い出がありますが、あの頃の先生や友達の笑顔は何より心の宝物だと思っています。

 これからの球磨村の子供達も新しい学び舎で新しい未来のために健やかに育ってほしいと願います。

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私の渡小学校の思い出

 平成7年度卒業の稲田さんから思い出をいただきました。ありがとうございました。

 

私の渡小学校の思い出

 平成7年度卒業 稲田

 思い出を書くことになり最初に思い浮かんだのは、一年一年過ごした教室やそこに繋がるコンクリートのざらざらした廊下です。あの頃はまだ廊下の途中に土足で歩く為の隙間があって飛び越えて遊んでいました。いつかの卒業生が残した手形や足形がたくさんついた色とりどりのスペースで足形に合わせて遊びました。給食室に置いてあった冷蔵庫では必ず誰かが半身を映して変顔したり浮いているって遊んでいました。

 段々と思い出す笑い合った日々の中で、特に卒業を見届けてくれた担任の先生が浮かびます。ギターを弾いて歌う垂れ目の先生。怒るときも笑うときも全力で向き合ってくれました。卒業前にご結婚されて、当時クラスのみんなでお祝いする会を開きました。子供ながらに祝えて嬉しかったこと、あっという間に卒業がきて先生が自分達ではないクラスの先生になるのがなんだか寂しいようなそんな気がしていた事を思い出しました。

 渡小学校が無くなってしまう寂しさはあれど、思い出そうとさえすればこうしていつでも蘇ってくるものなのだなと改めて感じました。忘れていた子供の頃、懐かしい日々を思い出す良い機会となりました。ありがとう、そしてさようなら私達の渡小学校!

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渡小学校での日々

 平成17年度卒業の地下さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校での日々

 平成17年度卒業 地下

あれは24年前、私は緊張しながら渡小学校に入学した。

私は身体障害の為、ひまわり学級で勉強した。

始めの3年間は姉と一緒だった。

ひまわり学級の歌を作ったのをよく覚えている。

図工で大きい人形を作ったのが楽しかった。

国語や算数は個別で頑張った。

宿題を忘れて先生に叱られた事も懐かしい。

また友達に優しい声をかける大切さも教わった。

休み時間になると仲良しの友達が遊びに来てくれたのが嬉しかった。

音楽や道徳などの授業は同級生の友達と勉強した。

音楽はみんな一緒に歌ったり合奏したりして楽しかった。

道徳では発表が苦手な私をみんなは出来るまで待ってくれたので嬉しかった。

上級生になると階段リフターができた事も思い出す。

時にはリフターが故障したら先生にお姫様抱っこして頂き

階段を登り降りした事もあった。

私は渡小学校で沢山の先生や友達に支えられてとても幸せだった。

私はこの先も人に感謝しようと思う。

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渡小学校在学時代の思い出

 令和元年度卒業の境目さんから思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校在学時代の思い出

 令和元年度卒 境目

 渡小学校では本当にたくさんのことを学ぶことができました。これからの学校生活を想像し楽しみな気持ちで学校の校門をくぐったことを今でもよく覚えています。毎朝、お気に入りのランドセルを背負って登校し、友達と互いに学びあい、遊んだことは私の中で最高の思い出です。また、先生方や地域の方々に本当によくしていただいたおかげで今の私があると思っています。

 渡小学校が閉校してしまうことを知って、私たちの母校がなくなってしまうことに悲しさと切なさを感じました。しかし、6年間仲間と共に過ごした思い出はこれからも私たちの心の中に残り続けます。たくさんの思い出を作ってくれた渡小学校の伝統を受け継ぎ、これからの人生をより良いものにしていけるよう精進していきます。本当にありがとうございました。

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渡小学校の思い出

 昭和50年度卒業の小川さんから思い出を寄せていただきました。

 

渡小学校の思い出

 昭和50年度卒業生 小川

 昭和45年4月に私が渡小学校に入学した当時、渡小学校は現在の旧多目的集会施設があった方向に木造ならではの趣のある2階建ての校舎で建っていました。これまでの卒業生の方々が学校生活を送ってこられた足跡を残すかのような板張り特有の廊下や階段、たくさんの手が触れられ、つるつるに磨かれた階段の手すり等、今でも頭の中にしっかりと校舎内の風景が残っています。また、私が在学中に渡小100周年が、校舎横に建てられていた、やはり木造の講堂で開催されたのも覚えております。

 さて、そのような学び舎で過ごした私の学校生活といえば、まさに「ガキ大将」そのもので授業中は教室の後ろに立たされ、休み時間は廊下に座らされるといった、先生方からの有難い躾を受ける学校生活でした。それでは学習する時間が無かったのではと思われますが、さすがに先生、ちゃんと放課後に残されての勉強にお付き合いいただきました。そういう先生方や同級生にご迷惑をおかけした思い出しか浮かんでこない私の小学校生活でしたが、今振り返って見ると、あの時の先生方からの悪いことは悪い、自分勝手は通用しないといった我慢すること、思いやりの心を持つこと、頑張ることなど、これからの中学、高校、社会人としての生きる力を身につけさせる教育をしていただいたのかなと思っております。

 それから数年が経ち、現在の渡小学校が旧渡中学校跡地に建てられ、私も自分の子どもたちを渡小学校へ通学させる保護者として、再び渡小学校へお世話になることになりました。子ども時代と変わらず「やんちゃ」な親で、学校行事等では先生から、「お父さんダメですよ」とお叱りを受けるのではないかと思うくらいの親でしたが、なんとPTA役員をさせていただくことになり、保護者としての子どもの家庭教育、地域との繋がり、そして学校運営にかかる保護者の役割等いろいろな事を先生方、PTAの諸先輩方、地域の方々からご指導をいただきました。

 そういった学習と人生勉強をさせてくれた渡小学校の思い出がたくさんありますが、この記念誌の思い出の文集を書いている今、渡小学校が解体されています。私の家の玄関を出るとすぐ目の前は渡小学校です。これまで、たくさんの子どもたちを育ててくれた渡小学校、渡地域の皆さんと子どもたちを繋いでいてくれた渡小学校、今でもたくさんの子どもたちの笑い声や運動場を元気にかけまわる姿が蘇ってくる渡小学校が閉校を待たず姿を消そうとしております。家からの見慣れた風景が変わろうとしている瞬間、この文集を書いております。

 ただひと言、「渡小学校ありがとう」と大きな声で叫びたいです。

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教師としての礎を築いてくれた渡小

 平成23年度・24年度の本校校長松田さんから思い出を寄せていただきました。松田さんは、昭和60年度から4年間本校に勤務されています。

 

教師としての礎を築いてくれた渡小

 第41代校長 松田晃ニ

 とうとうこの日がやってきました。

 7月3日の新聞に、現在の渡小の姿がありました。ほぼ更地でした。正門をバックにして、児童数名と見守り活動を続けられた小川さんを東校長先生がカメラで撮っておられる写真、体育館のステージ部分だけが外から見える写真、7時52分を差して止まったままの掛け時計等々。寂しいです。これらの写真を見ながら、しばらく当時のことを思い出していました。私にとってこの渡小は、教師としての礎を築いてくれた学校なのです。初任から4年間、励まし続けてご指導いただいた先生方、一緒に泣き笑いした子どもたち、「飲み方」を通していろんなことを教えていただいた保護者、地域の方々。全てが私の宝物です。

 私は、昭和60年4月1日に新任教師として本校に赴任し、時を経て、平成23年4月1日新任校長として再度、本校に赴任しました。平成23年4月1日、新任校長として本校に赴任した時、以前担任した子供たちが保護者世代となっていて、「松田先生!」と呼んでくれた時、なんとも言えないうれしさと、成長した姿に頼もしさを感じたことを覚えています。その子たちも、今では50歳に近づいているとのこと。時の流れのはやさをつくづく感じました。

 私は、初任の4年間の間に結婚もしましたが、その披露宴には渡小でお世話になった方々に来ていただいき大いに賑わいました。

 7月3日付の新聞の写真で知った現在の渡小の姿、本当に寂しい限りですが、渡小の伝統は残り続けます。私たちの胸の中に!

「球磨清流学園」の中に!

 渡小跡地のことも書いてありましたが、今後もこの施設を見守り、球磨村を応援し続けていきます。

 

昭和62年度の5年生、保護者と

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渡小学校の思い出

 昭和27年度卒業の浦野さんに思い出を寄せていただきました。

 

渡小学校の思い出

昭和27年度卒 浦野

 終戦直後の混乱期でした。服装もバラバラ、下駄やわらぞうりで登校しました。運動靴を買ってもらった時は、そのうれしさで、夜は靴をだいて寝たものでした。運動会は母手づくりのパンツ姿で参加しました。今のような行進曲ではなく校歌をうたいながらの行進でした。上級生の整然とした行進は本当に美しかったです。

 小学校4〜5年生の頃、中学校の校舎新築がはじまりました。大工さんのタキ火をかこんで遊んでいて始業ベルに気付かず授業に遅れて先生にこっぴどくしかられました。また、講堂の床下や天井にもぐって肝だめしのようなことをして遊んだり、池の周辺にあったモミジの若芽をもぎとってチャンバラごっこをしたりして先生にみつかり職員室の床に正座しお説教を受けたこともあります。

 当時は終戦直後で上下の関係は厳しく上級生は本当にこわかった反面、たよりになる先輩でした。先生方も軍隊経験があり元気よくこわいくらいでしたが、戦地の話や、童話をしてくださり楽しい時間を過ごしました。

 学校から帰ると駅前広場が遊び場でした。かくれんぼや探偵ごっこで木炭倉庫の山積された木炭の上に登り駅員さんや農家の人によくしかられました。また、小川川に釣りに行って暗くなるまで帰らず、父母や姉にもしかられました。釣り好きはこのころ覚えたものでしょうか。

 冬は裏庭でレンガワナを使ってスズメをとり、焼鳥にして喰ったりしたものです。当時は戦後の食糧難の時代でとてもおいしかったです。メジロやホオジロ等小鳥を飼って鳴き声を楽しんだりもしました。ニワトリのさばき方も父が狩猟をやっていたので見よう見まねで覚えました。今考えると生きたニワトリを殺してよくさばいたものだと思います。今は出来ません。布の材料にするためにカラホ草を刈り取って乾燥し、学校で集めて業者に渡すこともしていました。

 その頃は服も配給制でした。次は自分の番というところまできましたが、その後はこのやり方もなくなり自分はもらわずでした。この頃になると、日本もようやく戦後の復興が目にみえて進んで徐々に豊かになったようです。

 当時給食はなく、学校の近くの児童は家に帰って昼食をとっていました。ごはんの中身はカライモ、里イモ等がはいっていて、麦めし、アワめしはあたりまえでした。

 今のような時代が来るなんてだれが思ったでしょう。世の親たちのガンバリのおかげで今の自分達があるのだとただただ感謝あるのみです。

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講堂の中

 昭和55年(1980年)の旧講堂内の写真です。寄せていただいた思い出にも講堂のことがたくさん出てきます。

 当時小学校に体育館はなく,屋内での体育は講堂で行われていました。広すぎる中学校の体育館より,小学生にとってちょうどよい広さの講堂は格好の遊び場でした。

 当時,いたずらで講堂の天井に登り,叱られた人もたくさんいたようです。

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渡小学校にまつわる想い

 平成4年度に卒業された森さんから思い出を寄せていただきました。

 

渡小学校にまつわる想い     

 平成4年度卒 森

 小学生時代は、とにかく楽しかった。年齢の上下もなく、全校児童も百人ほど。顔見知りの人たちに囲まれ、仲良く楽しみながら過ごした日々。兄が二人いて、ほとんど不安なく過ごせたのが大きかったのかもしれない。

 校舎の中で思い入れが強いのは、図書室だ。多くの本があり、いつも、どの本を借りようかと、ワクワクしていたのを覚えている。運動場側の二段ほど段差がある場所に座って読むのがお気に入りだった。現在も本(活字)をよく読むが、小学生時代に読む楽しみに出合えたおかげである。

 大好きだった本は、江戸川乱歩の『怪人二十一面相』シリーズとアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』である。当時、どの位置に並べられていたか覚えている。『モンテ・クリスト伯』にいたっては、これまでにいろんな翻訳のものを読み比べするほど人生の中で非常に気に入っている作品である。

 また、校歌との出合いは、小学生以降の人生に大きなポイントとなった。ふるさとの音楽家犬童球渓が作詞作曲している校歌は、いまでもピアノで伴奏を弾きながら、歌える。歌詞を口ずさめば、ふるさと渡の様子が目の前に浮かび、自然と涙が溢れる。体育館で開かれていた集会などで、校歌の伴奏を何度もしていたのも、いい思い出だ。

 故郷を離れ、音楽を学ぶなかにおいても、犬童球渓先生の名は何度も出てきた。その都度、故郷を誇らしく思えたものだった。

 渡小学校で過ごした日々の中には、たくさんのさまざまな想いがあるが、【本】と【校歌】は特別なものであり、これからも人生の支えになってくれるであろう。

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昭和60年度の渡小

 昭和60年度の渡小です。串山さん、水篠さんに写真を提供いただきました。

 校長は中島巖さん、教頭は犬童敏春さんでした。この年度内布分校は休校という記録が残っています。児童数は、立野分校とあわせ148人でした。

 

 入学式での1枚です。この年度の1年生は19人でした。少し緊張した子供たちと晴れやかな表情の保護者のみなさん。いつの時代にも見られる入学式の風景です。

 

 運動会です。上級生と下級生一緒にダンスをしています。プログラム最後の全校ダンスでしょうか。

 

 4年生の研究授業の時の1枚とおしえていただきました。真剣な表情です。

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夢実現に向けて

 平成28・29年度校長の松岡さんから思い出を寄せていただきました。

夢実現に向けて

 第44代校長  松岡 里益 

 創立149年の歴史と伝統ある渡小学校が、時代の流れとは言え、幕を閉じると聞き一抹の寂しさを感じながら筆を執っています。

 本校には2年間お世話になりました。管外勤務5年を経験してからでしたが、改めて人吉球磨の教育の質の高さを痛感させられました。特に、在任中は村当局のご理解・ご支援により、当時としては、県内でも最高水準の教育環境実現のため児童・生徒二人に一台のタブレット端末を準備していただきました。

 平成29年度は球磨村三小・中学校でICTを活用した「未来の学校」創造プロジェクトの指定を受け、「主体的な学び合いを創造することのできる児童の育成」を研究テーマとして、授業の工夫改善に向けた研究を推進し、公開授業を行いました。管内はもとより管外からも多数の先生方をお迎えすることができました。参観の先生方からは、効果的な授業の工夫改善の手法等と共に子ども達の生き生きとして学ぶ姿勢に感銘を受けたとの感想をいただきました。その一つの要因としては、本校は他管内から赴任した若い先生方も多かったのですが、深い愛情を持って子ども達と接し、日々授業の工夫改善に向けて自己研鑽に励んでいたからだと感じています。当時の先生方は現在、渡小学校で学んだことを基に、それぞれの場所でリーダー的存在として活躍されていると聞いています。

 さて、令和6年4月からは義務教育学校へ再編され、村内の児童・生徒が相互に学び合うことになると聞いておりますが、地域の方々の深い愛情によって育てられた子ども達は、お互い切磋琢磨しながら、新しい伝統を築き上げるとともに、ふるさとへの愛着と誇りを持ち、一人一人の夢実現に向けて頑張ってくれるものと確信しています。

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渡小学校閉校によせて

 平成5年度卒業の中根さんに思い出を寄せていただきました。ありがとうございました。

 

渡小学校閉校によせて

 平成5年度卒 中根

 寄稿させていただくにあたり、友人から卒業アルバムを借りました。(自分の分は捜索中)卒業アルバムは手作りで、自分の好きなように写真とコメントを並べている形です。私たちの年は分校から合流した友人を含めて男子6人、女子9人の計15人。アルバムの中にはその全員がいました。季節の行事に取り組んでいる姿、今見るととてもかっこ悪いお揃いのジージャンとポーチ、よくわからない構図で撮られているおどけた写真、体育倉庫の横に池があり、そこにいた鯉?フナ?の頭の模様から「人面魚」がいたーーと騒ぎまくった記憶があります。冒険の毎日です。その思い出やその写真たちの後ろには渡小学校が私たちを見守ってくれているように映っています。

 世の中の少子化などの問題で、母校である渡小学校もいつかは合併とかしてなくなるのかなと思っていました。まさか水害によって校舎が傷つき、仮校舎として別地で継続し、そのままの流れで閉校になるなど考えてもいませんでした。

 令和5年7月、校舎解体作業も進み、あの頃の校舎の姿は思い出の中にしか存在しなくなりました。私たち卒業生は、たまに立ち寄って旧友と語り笑い合ったり、卒業記念寄贈品をみながら昔話で盛り上がったりなどがもうできません。でも私は早く解体されてよかったと思っています。いつまでも傷つき汚れたままの渡小学校を見るのはとてもつらかったからです。

 これからの球磨村では渡小学校を知らない子供たちも生まれてくると思います。長い時間の果てに渡小学校の歴史もたくさんの卒業生の思い出も埋もれていくのかもしれません。

 だからこそ私が今想うのは、機会があるごとに渡小学校が確かにここに在ったこと、一緒に生きてきた瞬間があったこと、いいことばかりじゃなかったけど、数えきれない思い出を作ってもらった事を、感謝の意味を添えて伝えていこうと思います。

 本当にありがとうございました渡小学校。ゆっくりお休みください。

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追憶

 昭和26年度卒の冨永さんからの思い出文です。戦後間もない頃の様子が伝わってきます。

 

追憶

昭和二十六年度卒  冨永

 私は第二次世界大戦の終わった翌年、昭和21年に渡東小学校(現在の渡小学校の前身)に入学した。

 戦争により荒廃した国土、特に都会には住む家すら満足に無い状態で、復興の目処も示されていない、無いないづくしの時代だった。

 大方の小学生の登校風景は、竹で編んだカバンに藁草履という出で立ちで、中には布で作った自作のカバンなどもあり、それは家庭によってまちまちであった。

 戦後3年位経った頃からようやく物が作られ始め、学校でも色々なゴム底の靴や学帽なども手に入るようになったが、それは全員ではなく、くじ引きに当たった者だけが手にすることができた。

 製品は粗製乱造そのもので、ノミ、シラミもみんな身体に取り込んで共生している有り様だった。栄養も不足し、みな身体は痩せてガリガリが普通。

 私が3年生になった頃、帽子と靴のくじ引きがあった。靴には当たらなかったが帽子に当たった。とても嬉しかった。

 翌日、その帽子を被って学校へ行ったところ、担任の東勝喜先生が(後に校長)「おう、よかとののさったね」と帽子の上からトントン押さえたら、天井部分がぽっかり抜けてしまい、教室のみんなが大盛り上がりとなった。

 今でこそ、日本製と誇らしく名前を付けてあるが、その頃の日本製は全くの粗悪品であった。忘れる事のない出来事である。

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渡小の思い出

 平成2年度卒業の今村さんより思い出を寄せていただきました。

 

渡小の思い出

 平成2年度卒 今村

 東京から球磨村に帰省した時には、いつも渡小学校へ散歩する。

 渡駅から小川橋を渡って川や田んぼを眺めつつ、運動場に沿ってまっすぐ伸びる道を歩いて校門の前へ。渡小の校舎は自然に囲まれたゆとりある敷地に伸びやかに建てられている。最近は洪水のため昔と変わってしまった風景にさびしさを感じつつも、それでも緑に囲まれたこの土地に癒され、当時、小学生だった僕もこの学校に見守られていたんだと思う。

 祖母に家の畑でとれた人参の葉を分けてもらって、友達と一緒に学校で飼っていたウサギに餌をあげていたこと。ニワトリがちょっと怖かったこと。

 夕方5時のサイレンが鳴るまで校庭をあっちにこっちに、みんなで飽きる事なくサッカーボールを蹴っていたこと。球磨村の小学校のサッカー大会で、他校は男子だけでチームを組んでいたのに、当時の先生の思いで僕達の学年だけ女子混合で出場し、他校のチームに負けず劣らずの良い試合ができて、それがとても誇らしかったこと。

 お別れ遠足のクラスの出し物で、6年生の前で井上陽水のモノマネをして歌い、生涯で一番の大爆笑をもらえたこと。

 雨の日、教室前のベランダで足を滑らせて頭を打ち、号泣したのち、先生に氷嚢で優しく頭を冷やしてもらったこと。本を読まないくせに図書館が好きだったこと。

 節分の豆まき大会、班ごとにダンボールで鬼の被り物を作り、僕はどうしてもその鬼を被って鬼役をやりたくて泣きそうになっていたら、一年下の子がその役を譲ってくれたこと。

 運動会の出し物、応援に来てくれた保護者達、指導してくれた先生達の前で、みんなで御神楽を最後まで踊り切り、大きな歓声と拍手をもらい、気分が高揚してなんとも言えない達成感を味わったこと。親御さん達の地区のリレーで父がやたら足が速かったこと。母の唐揚げが美味しかったこと。

 卒業式の日、校歌を歌って泣いて、親も泣いて、先生も泣いて、そしてみんなで笑って、卒業記念碑だった前方後円墳の前で笑顔で写真を撮ったこと。

 そんな何気ない日々の記憶が、僕の渡小学校の思い出です。球磨村の大自然に囲まれたこの渡小学校は、人の温かさ優しさに包まれた本当に素晴らしい小学校だったように思います。

 渡小学校にいた先生達、 渡小学校を支えて下さった地元の方々、六年間一緒に過ごした生徒達、全てに感謝します。

 校歌から『我らが生まれし渡の村ぞ。渡。渡。我が故郷。』

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球磨村だったから経験できたスクールバス通学

平成22年度卒の中村さんから思い出を寄せていただきました。

 

球磨村だったから経験できたスクールバス通学

 平22年度卒 中村

 私は、小学校6年間スクールバスで登下校しました。毎朝、学校へ行くためにスクールバスに乗るのが楽しみでした。バス停で友達と待ち合わせし、ワクワクしながらバスの到着を待ち、見送ってくれる家族や地域の方に手を振って私の一日はスタートしていました。

 帰りのバスも特別でした。毎日職員室へ帰りのバスの時間を報告へ行き、放課後の時間や、バスの中でいろいろな学年の人と交流することもできました。

 また、今では豪雨災害で変わってしまった風景ですが、バスの窓から見える景色は、私の日常の一コマとして印象に残っています。

 スクールバスは、私たちの日常生活の一部であり、思い出にも欠かせない存在でした。球磨村だったからこそ、スクールバスで登下校することが出来たのだと思います。また、スクールバスの運転手さんも私たちの大切な存在でした。いつも笑顔で迎えてくれ、私たちの安全を守って下さり、凄く感謝しております。

 スクールバスを利用することで学校と家を結ぶ大切な役割を果たし、楽しい時間や絆を育んでくれました。思い出を運んでくれたスクールバスや、見守って下さった先生方、地域の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

 父も渡小学校の卒業生ですが、父は毎日徒歩通学だったそうです。今の世の中、街灯がなかったり、集落から集落までの距離があるとどこに危険が潜んでいるかわからなかったりするからバス通学になったと父から聞きました。徒歩通学にもそれなりの良さはあるのかもしれませんが、私にとってはバス通学だったからこそ経験できた思い出が一番印象に残っています。今後義務教育学校を経験するみなさん方が、私と同じように、球磨村の卒業生で良かったと思えるよう願っています。 

 

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平成元年度の渡小

 平成元年度の渡小です。本校職員であった田山さんから写真を提供いただきました。

 校長は永田吉之丞さん、教頭は北川桂四郎さんです。児童数は、内布分校、立野分校合わせ116人でした。

 

 写真には3月18日とあります。この日は日曜日ですので、PTA行事の写真でしょうか。後ろの建物は、立野分校。記録によると、この年に校舎が新しくなっています。(9月27日起工式、2月4日教室移転、3月28日落成式)

 

 3月17日。卒業前の茶話会でしょうか。軽食や装飾の準備万端。きっと楽しい会になったと思います。

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渡小学校時代の思い出

 昭和40年度卒の大原様に思い出を寄せていただきました。

 

渡小学校時代の思い出

 昭和40年度卒  大原

来年度から義務教育学校「球磨清流学園」というこれまでにない試みがはじまり、まさに新しい時代がスタートしますね。渡小学校卒業生の私も大変うれしく、心からお祝いを申し上げます。

 今回私の60年前の小学校時代、そう、実に半世紀以上前をあらためて振り返ってみました。

 私の時代は残念ながら解体される旧渡小学校の位置に渡中学校があって、運動場を挟んだ反対側に小学校が建っておりました。たしか隣に渡役場もあったと思います。当時小学校の担任の先生は記憶違いでなければ、浜崎先生・宮崎先生・大瀬先生・上村先生・荒毛先生(5・6年生)達でした。

 冬場は廊下にアルミの弁当を温める三・四段の七輪を置いた木箱があり、お昼近くになると一段目の弁当のおかずが焦げるしょうゆの香ばしい匂いがそこらに漂いおなかが鳴ったものでした。

 給食が始まったのはたしか私が6年生だったと思いますが、それまでは持参した弁当のおかずを隠して食べる友達も少なからずいたことを考えると、二クラス全員が同じ昼食をいただくことは当時画期的だったことに違いありません。牛乳の代替である脱脂粉乳は生徒の好みが分かれており、まったく飲めない同級生もおりました。それでもたまに出てくるアゲパンやカレー汁の日は皆ニコニコしていましたが、現在の皆さんの給食はどうでしょうか?

 冬場の教室は凍えるほど寒かったのですが、職員室は練炭ストーブが置いてあり放課後は担任の先生が焼酎のお湯割りをニコニコしながら飲んでおり、授業中とはまた違った話をしてくれました。

 入学当時はテレビがある家がまだ少なかった時代で、みんなでテレビのあるお宅に集まってプロレスを観戦する金曜日が楽しみでした。その時代というのは繁栄に向かって日本中がせり上がっていく槌音が聞こえてくる少し前の時代ですね。しかしテレビが家庭に少しずつ浸透し、プロレスや歌謡曲が皆の共通話題になっていくのに時間はかかりませんでした。世の中は東京オリンピックに沸き、私たちも村の一大祭りである小学校運動会で東京五輪音頭を踊ったものです。

 夏休みはみんなで早朝ラジオ体操をし、午後は底が見える球磨川で素潜り石取りや浮き輪遊びをしたものです。ソワソワしながら昼ごはんを食べ、誘い合ってきれいな川に行くときが最高に楽しみでした。プールがなかった水泳の授業では、学校傍の冷たい小川で泳ぎ、みんなではしゃいだ記憶があります。低学年高学年に関係なく一緒に、缶蹴り、メンコ、コマ回し、ビー玉、けんけん、凧揚げ、ワナ仕掛け、隠れ家つくりなど、当時物資が乏しいなかでも工夫して遊んでいたような気がします。これらのことは長い間忘れておりましたが、今思うと自分のからだのどこかに残っており、後年フッと思い出し、いろいろな経験は無駄ではなかったと感じる瞬間があります。現在の小学生の皆さんが歳を重ねていった未来はどうなっているでしょうか。未来の予測はむつかしいですが、いまの体験が将来皆さんのかけがえのない宝になることは間違いないと信じています。ぜひ今を楽しみながら学び遊んでくださいね。

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渡小学校で過ごした6年間

 平成12年度卒業の槻木さんから思い出をいただきました。

 

渡小学校で過ごした6年間

 平成12年度卒業  槻木

 内布地区の中心にある渡小学校内布分校。同級生6人と過ごした3年間。朝登校すると倉庫から一輪車を走って取りに行き皆で一輪車の練習、忘れ物があると十分間の休み時間に走って取りに帰り、掛け算九九を先生の前で全て答えたら裏の集会場兼体育館で皆でドッジボール、夏は馬氷川で泳ぎ、秋はさつまいもを収穫して職員室で焼いてもらい皆で試食会、毎回打ち上げまで大盛り上がりで終わる内布地区住民全員参加の大運動会、冬は雪山探検にどんどや。一年を通して先生と子ども、地区住民の賑やかな声が絶えなかった分校での生活でした。

 4年生になると自転車に乗って朝7時10分御堂前に集合し、約40分の道のりを自転車で本校へ。同級生が6人から24人に増えました。特に思い出深いのは、4年生から6年生が一緒になって犬童球渓音楽祭でウィリアムテル序曲を演奏したことです。練習も楽しみで、一つの音を皆で出せる喜びを味わうことができました。また運動会で御神楽では太鼓を叩きながら見えた、皆が扇子を振って跳んで踊る圧巻の光景は忘れることができません。

 たくさん挑戦して、たくさん笑って、喧嘩して泣いた六年間の思い出が詰まった渡小学校。20年余り経った今も、振り返ってみるとやはり渡小学校に通うことができて幸せに思います。思い出を振り返るだけで、現在の忙しい毎日の中で温かい気持ちになりました。災害と人口減少という時代の流れで閉校になり、寂しいというのが正直な気持ちです。私たちを見守ってくれた渡小学校に「ありがとう」と言いたいです。

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平成2年度の渡小

 平成2年度の渡小です。当時職員の田山さんに写真を提供いただきました。

 校長は永田吉之丞さん、教頭は北川桂四郎さん、児童数は内布分校、立野分校あわせ115人でした。

 

 授業風景。短パンでの授業。時代を感じます。

 

 部活動。ミニバスケットボール。人吉球磨大会で優勝したとの記録がありました。すごいです。

 

 運動会。3年生から6年生で「御神楽」を発表したと記録があります。太鼓をたたかれているのが田山さんです。一体感と迫力を感じます。

 

 

 部活動。郡市サッカー大会の様子。

 

 卒業式。充実した1年のフィナーレ。感動の式だったことと思います。

 

 卒業記念製作の「古墳」。円墳部分には、タイムカプセルを埋められていたとのこと。PTAの力のすごさを感じます。

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「渡 東小学校」へ入学の一年間

 昭和23年度入学の中竹さんから思い出を寄せていただきました。

 

「渡 東小学校」へ入学の一年間

 1941年生まれ 中竹 

 1941年生まれの私は、1948年(昭和23年)4月に球磨村渡 東小学校へ入学した。

 小学校では新入生になる学童・父母に対し、学校説明会があったらしい。その会場では「抽選会」もあったらしく、洋服生地が賞品にあって、見事に私が引き当てたらしい。母は「4歳で急性肺炎から回復したこの子は、相当に強運の子だ」と想像もしたらしい。その「強運の子」を本気で思っていたらしく、知り合いにも「この子は自分のことを自分で出来るよ」と語っていた。

 渡小学校の少し先の辺りに洋服の仕立屋に注文されていた「入学用の洋服」を母に連れられて受け取りに出向いた。その新調の服を身に着けて「1年生入学の記念写真撮影」があった。校門左手に、塀の代わりに低い土手があった様に記憶する。この土手の上は、入学記念のクラス写真の場所がここだったと記憶している。校長先生は「くあちひげ」をたくわえた正装姿で列の中央に、その横に担任の女性の先生が写っていた。この土手の上は、入学記念のクラス写真の場所がここだったと記憶している。(私は東京・八王子の現住所へ定住するまでの引っ越しが多く、始末が悪くアルバムも纏めて仕舞い込み、入学記念の写真の所在も今すぐには取り出せない)

 1949年(昭和24年3月)、1年の学年末に渡小学校から日田市立の三芳小学校へ転校した時に、渡小学校で経験できたお陰で、「お世話になった教育的な効果」が発揮できた。

 私は社会人として成長し、「医学系の杏林大学教員」となって43年間勤務後に、教授定年を迎えて退職を迎えた。私の職務では臨床検査学の領域で「臨床血液学」の講義はもとより、医学検査学会の大会場で自分の言葉を駆使して「研究発表も自信を持ってできる意識」を植えつけられた実感がある。担任の先生方のお考えでは、私の未来に想像できる「教育の効果」が見えていたのだろうか。

 往年に、母校が懐かしくて昔の正門の位置でフェンスの外側から訪問(覗き見)に行った。その運動場には学童たちが体育の時間だったらしく、受け持ちの女性の先生が見学者の私に気付き、ご丁寧に頭を下げて、ほほ笑んでいただいた。入学時の担任の先生が突然、目の前に現れた様な、懐かしい刺激があった。

 近年の大水害で渡小学校は隣接の特別養護老人ホーム(千寿園)と共に水没し、渡駅舎や肥薩線の線路も流失、今村に出来た「沖鶴橋」も流失、そして今村地区の家々や農地は荒涼とした「耕作放棄地」の様になって見えるから、今村の殆どが被災したらしい。私は球磨川の氾濫で「故郷が消えてしまった」という無念さを拭えない。インターネット情報に故郷の現状があり、私の積み上げて来た人生の情報もこうした仮想のネット情報の中に息づいている。時代が流れると、真実の情報も仮想の中でしか存在しないので、空しく思うことも無かろう、と納得もできる。

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沢山の思い出をありがとう

 平成5年度卒業で、現在はオーストラリアにお住いの佐々木さんから思い出を寄せていただきました。

 

沢山の思い出をありがとう

 平成5年度卒 佐々木

 渡小学校へは、祖父、祖母、父、叔母、姉、私、そして姪と代々通ってきました。これからも続いていくものと思っていたものが途絶えてしまうことに、ただただ寂しく思います。

 35年前、私は初めての学生生活に少しの不安と多くの希望を持ち、渡小学校に入学しました。想像していた通り学校は楽しく、毎日学校へ行くことが喜びでした。行事も多く、芋ほり、運動会、餅つき、体力テスト、田植えや稲刈り等どれも色濃く覚えています。その中でも特に、運動会で踊る御神楽は大好きで、体が小さい私は、動作だけでも大きくして目立つように心がけて踊っていました。みんな一生懸命に踊っていて、一致団結しており踊り、終わりには清々しい気持ちになっていました。行事以外では、天気の良い日に校庭の大きなイチョウの木の近くに長ござを敷いて皆で給食を食べたこと、ニワトリの餌やりで、ニワトリに追われドキドキしながら餌をあげたことも良い思い出です。

 時は流れ、三人の娘の母親になり、現在私はオーストラリアに住んでいます。一時帰国した時は子供たちを渡小学校に通わせたいと思っていたので、それができないのがとても悲しいです。渡小学校が廃校となってしまった今、娘達に私の母校を感じてもらうことはできませんが、今後は写真や会話の中で渡小学校の思い出をたくさん伝えていけたらと思っています。

 大好きな渡小学校!たくさんの思い出をありがとう!!

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昭和63年度の渡小

 昭和63年度の渡小です。当時勤務されていた田村さんから写真を提供いただきました。

 校長は永田吉之丞さん、教頭は北川桂四郎さんです。児童数は、内布分校、立野分校あわせ115人でした。

 部活動(ミニバスケットボール部)の写真です。賞状があること、また、先生の表情から強い部だったのだろうと思われます。

 

 記録によると11月27日に6年生が体力づくりのために美里町にある3333段の石段にチャレンジしています。

  

 運動場に設置された的当て板。保護者の方も入っての撮影ですので、卒業記念製作なのかもしれません。PTAの皆様の力のすごさを改めて感じます。

 

 職員を招いての6年生の会食会です。

 

 卒業式。充実した小学校生活最後の日。きっといい式になったと思います。

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昭和61年度の渡小

 昭和61年度の渡小です。当時勤務されていた田山さんより多くの写真を提供いただきました。少しずつ紹介できればと考えています。

 校長は中島巖さん、教頭は犬童敏春さん。児童数は内布分校、立野分校あわせて138人でした。

 4月11日。見知り遠足。石水寺が目的地だったようです。

 

 6月4日。4年生熊本見学旅行。熊本城見学の様子です。

 

 11月18日。4年生、算数研究授業。「面積」の授業のようです。記録によると、田山さんはこの年新任で渡小にこられています。

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渡小学校在学時代の思い出

 平成25年度卒業の水篠さんに思い出を寄せていただきました。

渡小学校在学時代の思い出

 平成25年度卒 水篠

 私の渡小学校時代の思い出は二つあります。一つ目は1年生から3年生まで3年連続で童話発表会のクラス代表に選ばれたことです。2年生では学校代表にも選ばれカルチャーパレスで発表しました。童話発表会に向けて家でお母さんと練習を頑張った記憶があります。全校生徒の前で発表することはとても緊張して上手く発表できなかった年もあり悔しい思いをしましたが、人前に立って発表する経験ができ一つ成長できた機会になりました。また学校代表になった際には休みの日にも学校へ 行き当時の担任の先生と練習をしました。学校代表に選ばれた時は不安だらけでしたが、ご褒美を目標に本番まで頑張ることができました。様々な思いや経験が出来たのでいい思い出です。

 二つ目 は小学校最後の運動会です。応援団長として団をまとめたり親子競技で父と顔を真っ白にしてゴールしたりと楽しかったことばかりが思い浮かびます。親や地域の方々と交流できる一つの行事だったのであまりにも楽しく一日があっという間でした。そして私の中でお昼ご飯が運動会のメインでもありました。母が作ってくれる運動会メニューが私の好きなものばかりで、家族みんなでテントの下で食べることでより美味しく感じました。

 今、小学校6年間を振り返るとたくさんの思い出が思い浮かびます。様々な経験ができた6年間、とても充実していて楽しかったです。ありがとう 渡小学校。

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平成8年度の渡小

 平成8年度の渡小です。水篠さんより写真を提供いただきました。

 当時4年生の水泳学習の様子です。校舎はもちろんのこと、プールがあった場所も今は更地になっており、今となってはなつかしい景色です。 

 

 こちからは、放送室です。職員室と体育館の間にありました。委員会活動の様子でしょうか。放送委員会は、昔も今も人気の委員会です。

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母校を想う

 昭和45年度卒業の岡本さんから思い出を寄せていただきました。

 

母校を想う

 昭和45年度卒 岡本

 渡小学校の想い出…いま振り返ると、さまざまな光景がよみがえってきます。学校教育の中でも、目まぐるしいデジタル化・IT化に伴い、日々変化していくことに時の流れを感じるなか、我々が過ごした、のんびり・ほのぼのとしたあの六年間をいま振り返ると、本当にある意味「それなりに幸せな時代」だったなとつくづく思います。

 4年生の時に生まれて初めて行った海での潮干狩り、修学旅行で初めて行った宮崎・鹿児島……孫にその話をしてもなかなか信じてくれないような、今では考えられない時代でありました。

 「貯金の日」として、毎週金曜日には郵便局から出向いていただいて、10円・30円…と貯金の大切さも学びましたし、給食のワゴンを横転させて大恥をかいてしまったこと、運動会の総練習の際に掲げられた国旗にたまたま虫穴があいていて、子供なりに悲しい気持ちになったことなど、なぜか今でもはっきりと覚えています。

 13年前に他界したお袋が、小学校時代に残した私の大切な思い出の品(作文・絵・回答用紙、それに通知表など)を、母ながら処分しきれずに段ボール三箱に保存していてくれたのを含め、当時の想い出となる写真など形として残っている物は、先般の豪雨災害で残念ながら全て水没してしまい何ひとつ残っていませんが、この歳になってしみじみと感じる母の愛情とともに、私のこころの中にはひとつひとつの出来事がしっかりとした想い出として焼き付いています。

 残された現校舎は、我々の時代に通っていた木造校舎ではないにしろ、解体される哀れな姿を目の当たりにする度に、ただただ悲しく寂しく目頭が熱くなるばかりです。

 渡小学校の姿はなくなり、新たな形としてスタートしても、これからの未来に向けて宝となる子どもたちを見守りつつ、私を含め多くの卒業生の方々も、お世話になった母校のことをいつまでもいつまでも忘れずに、永遠に心の中に刻んでおいてほしいと願うばかりです。

 ありがとう渡小学校  さようなら渡小学校

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渡小学校の思い出

昭和57年度卒業の地下さんより思い出をいただきました。

 

渡小学校の思い出

 昭和57年度卒 地下

 私が入学したのは昭和52年度、卒業して約40年になります。私の学年が35人くらい、全校生徒が180人位でした。

 入学した頃はまだ渡中学校があり、小学校はグラウンドの南側に木造の旧校舎がりました。旧校舎は正面玄関横に二宮金次郎さんの像があり、母に「苦労しても勉強した偉い人」と聞いた覚えがあります。校舎に入ると長年磨かれたであろう黒光りした真っ直ぐ長い廊下がありました。踏み心地のいい木の階段があり、休み時間に友達とじゃんけんして「グリコ」「チョコレート」「パイナップル」と大声出して遊んでいました。

 教室の中央には煙突のついた大きなストーブが座っていました。木製の窓がガタガタ開け閉めしづらいこともありましたが、古いながらも居心地のいい空間でした。

 4年生か5年生頃、中学校跡に被災した新校舎が建てられました。新しい校舎にワクワクしながら自分の机や椅子を持って引っ越しした覚えがあります。

 運動会は保護者の方が大勢参加され盛大に開催されていました。記憶に残っているのは「親子リレー」という種目です。姉が6年生、私が1年生の時に一度だけ出場しました。私が一走。1年生で足も遅かったので大分離されてしましました。しかし、アンカーの父が他のお父さんたちに追い付き、勝てそうになり興奮して応援しました。結局ゴール寸前で転倒して最下位になってしまいましたが、活躍した父が誇らしい気分でした。今でも父の思い出話に出てきます。

 部活動では水泳部に所属していました。水泳にはまだ寒い季節から水泳の授業がとっくに終わっている季節まで毎日練習していました。成績は芳しくありませんでしたが、三人一組でエンドレスリレーしたり、バケツを引いて泳いだり鍛われたおかげで体力が付きました。そのおかげで運動面はもとより、受験や仕事も乗り越えられてきたと思っています。顧問の森川先生はとても厳しい先生でしたが、練習が終わるとよく小川川へ連れて行ってくださいました。先生が投網をされる周りで魚を取ったり、川の流れに乗ったり楽しい時間を過ごしました。先生にはとてもお世話になりました。

 地元を離れ、たまにしか帰れていませんが、渡小学校は私が子供の頃の思い出が詰まった大切な場所です。なくなってしまうのは本当に寂しい限りですが、これからも大切な思い出を大切にしていきたいと思います。

 ありがとう渡小学校。

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渡小学校の閉校に寄せて

 平成24年度にPTA会長を務められていた蔵谷さんから思い出を寄せていただきました。

渡小学校の閉校に寄せて

 平成24年度PTA会長 蔵谷

 149年の歴史をもつ渡小学校は、令和5年度をもって閉校になるわけですが、我が子、卒業生にとっては自分が卒業した学校が閉校になるのは大変寂しいことだと思います。

 しかし、これも子供たちの教育環境がより良くなるためであると受け止め、 新たに創設される球磨清流学園の発展に期待したいと思います。

 今回の閉校、新設校に係る作業はとても大変なものと推察いたします。通常業務を行いながらご尽力いただいている現職員の皆様、PTA会員の皆様、関係者の皆様には本当に頭が下がる思いです。

 私は平成24年度にPTA会長を務めさせていただいたわけですが、この一年間は教職員の皆様の温かいご指導とご協力、そしてPTA会員の皆様 のご協力のおかげで、任期を全うすることが出来ました。また、一人の親としても我が子の成長と共に多くの思い出が出来ました。PTA会長及びPTA役員時代、運動会での仮装や学習発表会での演劇、どんどやなど楽しかったことが今でも最近の出来事のように思いだされます。本当に楽しい貴重な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

 当時親の立場から見た渡小学校の印象は、子供たちが先生方にいつも声をかけてもらい、 子供たちもいつでも自分のことを先生が見てくれているという安心感と自信をもって学校生活を送っているように思いました。今後は球磨清流学園として、新たな歴史を刻むことになりますが、新たな友達もたくさん増え、楽しい学校生活を送れることを願っております。

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