上地区めぐり

2016年8月の記事一覧

学校北側のがけ

  
           (学校の北側の斜面)                         (がけの下の わき水)
 学校の北側の斜面は、かなり高い崖(がけ)になっています。どのようにしてできたのかと以前から疑問に思っていました。
 そこで、地質学に詳しい、あさぎり町の中村富人教育長にうかがいました。
 結論は、学校北側の斜面は、「免田川の河岸段丘崖(かがんだんきゅうがい)」ということでした。河岸段丘は、川の流れる水のはたらきでできるもので、全国いたるところで大なり小なり見られます。
 川の流れる水のはたらきによって川底に砂・土・石などがつもります(たい積)。
その川底のたい積物(たいせきぶつ)が長い年月の間に、大地の動きによって隆起(りゅうき)し地表にあらわれます。何千年、何万年かけて川はさらに川底や川の両側をけずります(侵食)。そうすると、かつての川底のたい積物は、川の流れる水によってけずられて崖や平らな部分ができます。崖の上の平らな部分が河岸段丘、斜面の部分が段丘崖ということです。

 白髪岳から大なり小なりの川が免田川、球磨川に向かって流れていますが、学校から白髪岳の方角は、扇状地(せんじょうち)を形成し、その縁(へり)が学校の北側の崖です。扇状地の縁は、湧水(わきみず)が多くありますが、学校北側の崖の下を見に行くと湧水がたくさん出ていました。とてもきれいな水で、夏は冷たく、冬はあたたかく感じる水だそうです。大地の下を通ることによってろ過されたとてもきれいな水なので、以前はその水を飲む方もおられたということでした。

下永里地区 その2


 4月に田植えをされたそうで、8月末には収穫でき、稲刈りのあとは「そば」を作られるそうです。
 右の写真は、「おどし」と呼ばれるもので、赤い部分が音をだして上に上がっていました。「すずめ」を追い払うもので、5分間隔で作動し、近くに民家があるため音は控えめに設定してあるそうです。

下永里地区 その1


 光源寺です。上小の2年生は、「まちたんけん」の際には見学に行き、住職さんからお話を聞きます。
「明治4年(1871年)宗門改めは廃され、信仰の自由が許された真宗のかくれ門徒が立ち上がり、明治15年(1882年)に光源寺開基になったのである。」(上村の文化財 第2集より)とありました。
 人吉球磨地方は、藩の政策により室町時代から明治時代になるまで浄土真宗の信仰が禁止されていました。
 しかし、信仰心の強い人々がひっそりと信仰を続けてきました(かくれ念仏)。明治時代に入り、先述の信仰の自由が許され人々が立ち上がり、つくられたお寺です。敷地内には石塔も多くありました。

榎田地区 その5


榎田地区に「地蔵堂」がありました。「オンカカ、カビサンマ、エイソワカー」という言葉(梵語の地蔵真言だそうです)を3回唱えてお祈りするといいそうです。