上地区めぐり

2016年8月の記事一覧

西別府地区 その3


 立派な「石蔵」がありました。(左) 持ち主の方に聞いてみると、今から90年ぐらい前の昭和2年に作られたそうで、「人吉球磨石蔵100選」にも選ばれたそうです。今は、倉庫として使用したり、石蔵の中でバーベキューをされたりされているそうです。
 右の写真は、「納屋」です。今はあまり見かけない大きな木で作られていました。昔ながらのつくりの納屋でした。

清水地区 その4


 「春日ぼうふら」を作られていた方が栽培されていた「ふろ豆」という野菜です。実は、とても長く50~60cm位ありました。「三尺豆(さんしゃくまめ」ともよばれ、長いものは約90cmくらいに育つそうです。こんなに長い豆ははじめてみました。
 ここ5年ほど栽培されていなかったそうですが、保管されていたたねを用いたら発芽し、栽培されているそうです。

清水地区 その3


 めずらしい野菜を見つけ、栽培されている方にお聞きしました。かぼちゃのような葉とくきが、納屋全体をおおうように見事に成長していました。 
 「おてもやん」の歌詞にでてくる「春日ぼうふら」だそうです。「春日ぼうふら」とは、かぼちゃの一種ですが、その実は、右の写真のようにヘチマの形のようで、ひょろ長い形をしていました。
 「京野菜」という京都地方の伝統的な野菜は、テレビ等でもよく目にしますが、、「春日ぼうふら」は、「ひご野菜」とよばれる熊本の伝統的な野菜の一つだそうです。

清水地区 その2


 米の収穫が済んでいる水田もありました。(8月10日)
左の写真は、収穫を前にすずめよけのための、鳥の形をした凧のようなものがありました。

清水地区 その1


 清水地区は、戦後入植され、大変な苦労をされて原野の開墾を進められたということでした。はじめの頃は水利が整備されてなく畑地での農作物の栽培をされていたそうです。
 しかし、構造改善事業により区画整理や幸野溝の延長・改修がなされ、現在では右の写真のような広い水田が広がっています。
 左の写真のように公民館にはその開拓の記念碑がありました。

塚脇地区 その5


塚脇公民館の中に、「毘沙門天像」が保管されています。町指定有形文化財だそうです。公民館は、かぎがかかっていて、残念ながら写真にとることができませんでした。
また、公民館の敷地内には立派なイチョウの木ありました。この木も
町指定天然記念物だそうです。

塚脇地区 その4

「お名号さま」
 塚脇地区には、お名号さまと呼ばれる、「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸があります。
 錦町木上の十日市地区と1年交代で保管されているもので、「自分の地区に保管する際には、地区の代表者の方が迎えに行かれる」ということが現在も行われているとのことでした。そのときは、お寺の住職の方が来られ、地区の人も集まりお経をあげられるそうで、「かくれ念仏」に関係があるということでした。
 残念ながら、写真は撮れませんでした。

学校北側のがけ

  
           (学校の北側の斜面)                         (がけの下の わき水)
 学校の北側の斜面は、かなり高い崖(がけ)になっています。どのようにしてできたのかと以前から疑問に思っていました。
 そこで、地質学に詳しい、あさぎり町の中村富人教育長にうかがいました。
 結論は、学校北側の斜面は、「免田川の河岸段丘崖(かがんだんきゅうがい)」ということでした。河岸段丘は、川の流れる水のはたらきでできるもので、全国いたるところで大なり小なり見られます。
 川の流れる水のはたらきによって川底に砂・土・石などがつもります(たい積)。
その川底のたい積物(たいせきぶつ)が長い年月の間に、大地の動きによって隆起(りゅうき)し地表にあらわれます。何千年、何万年かけて川はさらに川底や川の両側をけずります(侵食)。そうすると、かつての川底のたい積物は、川の流れる水によってけずられて崖や平らな部分ができます。崖の上の平らな部分が河岸段丘、斜面の部分が段丘崖ということです。

 白髪岳から大なり小なりの川が免田川、球磨川に向かって流れていますが、学校から白髪岳の方角は、扇状地(せんじょうち)を形成し、その縁(へり)が学校の北側の崖です。扇状地の縁は、湧水(わきみず)が多くありますが、学校北側の崖の下を見に行くと湧水がたくさん出ていました。とてもきれいな水で、夏は冷たく、冬はあたたかく感じる水だそうです。大地の下を通ることによってろ過されたとてもきれいな水なので、以前はその水を飲む方もおられたということでした。

下永里地区 その2


 4月に田植えをされたそうで、8月末には収穫でき、稲刈りのあとは「そば」を作られるそうです。
 右の写真は、「おどし」と呼ばれるもので、赤い部分が音をだして上に上がっていました。「すずめ」を追い払うもので、5分間隔で作動し、近くに民家があるため音は控えめに設定してあるそうです。

下永里地区 その1


 光源寺です。上小の2年生は、「まちたんけん」の際には見学に行き、住職さんからお話を聞きます。
「明治4年(1871年)宗門改めは廃され、信仰の自由が許された真宗のかくれ門徒が立ち上がり、明治15年(1882年)に光源寺開基になったのである。」(上村の文化財 第2集より)とありました。
 人吉球磨地方は、藩の政策により室町時代から明治時代になるまで浄土真宗の信仰が禁止されていました。
 しかし、信仰心の強い人々がひっそりと信仰を続けてきました(かくれ念仏)。明治時代に入り、先述の信仰の自由が許され人々が立ち上がり、つくられたお寺です。敷地内には石塔も多くありました。

榎田地区 その5


榎田地区に「地蔵堂」がありました。「オンカカ、カビサンマ、エイソワカー」という言葉(梵語の地蔵真言だそうです)を3回唱えてお祈りするといいそうです。

榎田地区 その4


 榎田地区で見かけた「イチジク」です。たくさんの実がついていました。私の家でも「イチジク」を植えていますが、他のところで植えてあるのは初めてで写真に撮りました。ここ数年食べるようになったのですが、思っていたよりとてもおいしく感じます。
  右の写真は、きれいに手入れされていたクヌギの林の中の水路です。幅も広いものでしたので、「幸野溝かな?」と思い、近所の方に聞いてみたところ、「幸野溝ではない」ということがわかりました。

榎田地区 その2


 これまであまり目にしなかった竹林がありました。(左の写真)よく手入れされていました。右の写真は、「ムクゲ」です。はじめ見たとき「寒暖の差が大きい球磨地方でハイビスカス?」と思いましたが、調べてみたらムクゲでした。

榎田地区 その1


 榎田地区に阿弥陀堂がありました。その中には阿弥陀如来像がありました。地区の人びとは、「あみださま」とよんでおられるそうで、旧暦6月に、祀りをされるそうです。右の写真は、同じ敷地内にある「五輪塔群」と呼ばれるものだそうです。

上永里地区 その6

 
 左の写真は、上永里公民館の敷地内にある「権現神社」です。近くに住んでおられる方に聞いてみたところ、昭和30年ころに現在地に移されたとのことです。ご神体は「鏡」で年に2回祭事が行われるということでした。
 右の写真は、雲羽神社です。かやぶきの屋根を保護するように新しい屋根が作られ、2重の屋根になっているのが特徴的でした。

上永里地区 その4


 いのししなどの農産物を荒らす動物よけの電柵の施設をいくつかみかけました。話をうかがってみると、50年以上前は、竹林や原野も少なくなく、開墾して農地をひろげられたそうです。現在は、田や畑が広がり、米や梨、栗などの果樹栽培も盛んなようです。
 また、農業用水は、清願寺ダムからのかんがい施設(上永里地区 その2にあります)ができ、作物の種類や収量も増えたということでした。

上永里地区 その2


 左の写真は、よく見かけるというか、ほとんどの畑や水田にあったものです。「たちあがり」と呼ばれるものだそうです。水道の大きな蛇口のようなものです。近所の方にたずねてみると農業用の散水施設で蛇口をひねると水が出て、その水で梨などの果実や畑の作物に水をかけるそうです。出る水は井戸水ではなく、「清願寺ダム」から取水してあるそうです。幸野溝より土地の高度が高いところの田や畑でとても多く見かけました。

上永里地区 その1


 上永里地区でも栗の木を多く見かけました。そしてクヌギの木も多く植えられているようでした。クヌギの木というと、カブトムシやクワガタを連想しますが、クヌギの木は「しいたけ」栽培の原木として利用されることが多いそうです。

永里地区 その6


 永里地区では、栗の木をよく見かけました。作業をされていた方に聞いてみたところ、もうすぐ収穫の時期をむかえるので、木の下に落ちている実(実が入らなかったもの)は「収穫時に邪魔になるのでひろった」とのことでした。栗の種類は、「たんざわ」「つくば」などだそうで、栗の種類によって収穫時期もちがうそうです。
 右の写真は、栗の木の近くに植えられていた「こんにゃく」です。こんにゃくは、地面の下に「こんにゃくいも」ができます。以前一度こんにゃくいもからこんにゃくを作ったことがありますが、スーパー等で売ってあるこんにゃくは、「このようにしてできるのか・・」と感動した覚えがあります。