上地区めぐり

上地区めぐり

白髪神社秋季大祭

白髪神社秋季大祭
11月3日(金)に【白髪神社秋季大祭】が行われまし
た。上小学校の子どもたちもたくさん参加し、秋季大祭
を盛り上げてくれましたので、いくつかご紹介します。

おそろいの法被がかっこいいですね。元気いっぱいに
お神輿を担いでいました。

剣道大会も大いに盛り上がりました。上っ子剣士たち

躍動する姿はかっこよかったです。

相撲大会も大盛り上がり!団体戦、男女学年別の個人戦
が行われ、勝って喜ぶ子、負けて悔し涙を流す子と、本
気のぶつかり合いが見られて感動しました。

ギンモクセイ



給食室から低学年棟につながる通路を歩いていくと、
今年もギンモクセイの花が咲き、辺り一面いい香りが
しています。

ケンポナシの実



「ケンポナシ」の木に実がなりました。調べてみると、
これから秋にかけて熟していき実はさほど大きく
ならず、実のついているところの「枝」の部分がふく
らんでいくそうです。ふくらんだ「枝」をかじってみる
と「ナシ」の味がするそうです。

上小学校の名木(ケンボナシ)


ケンポナシ
「校庭の東南の隅、崖の縁にあるのが、ケンポナシ
です。秋には今でも実をつけます。」(上村の文化財
第3集より)
冬場は落葉しますが、夏場は葉を茂らせています。

上小学校の名木(天皇誕生記念のシュロ)



天皇誕生記念のシュロ
「昭和9年3月、前年12月23日の皇太子殿下
(現天皇陛下)ご誕生記念として植えられたものです。
校舎隅に記念碑があり、当時の区長22人の名前が刻ま
れています。記念碑には北側の崖一帯に100本を植
えたとありますが、今でも約40本が残っています。」
(上村の文化財 第3集より)
  上の写真は、運動場の北西隅にある記念碑です。
シュロは、学校の北側の斜面に植えてあります。

ビハ公園 その3


ビハ公園内の様子です。夏になると多くの昆虫を見ることができます。
宿泊施設として「トレーラーハウス」もありました。中はエアコンや水道施設・ベッド等も完備しています。

上小学校の名木(校舎移転記念のクス)


校舎移転記念のクス
「明治26年に現在地に移転した記念に植えられたものといわれます。当時は、今の農協の入り口の正面に校門があり、その脇にありましたが、県道の拡張に伴って昭和40年代はじめに移植されました。」(上村の文化財 第3集より)
 校門を入ってすぐの所に植えられています。大きなクスの木です。夏場はよい緑陰を作ってくれます。

学校の野鳥④(イカル)


 イカルも学校にやってきました。イカルは、群れを成すことが多い鳥で、学校でも20羽ほどの群れで、木の実をついばんでいました。    
 くちばしが黄色で体長20Cmを超え、すずめ等より一回り大きく、色もはっきりとし、すぐ「イカル」とわかりやすい鳥です。

上小学校の名木(エノキ)


エノキ
「校舎裏の県道沿と北側校舎の角、それに崖下に大きなエノキがあります。いずれも幹回り2メートルを超しています。」(上村の文化財 第3集より)

 写真のエノキは、県道沿い低学年棟のもので、近くに遊具が設置してあり、そのすぐ近くに植えてあります。子どもたちは、木の周りで元気に遊んでいます

上小学校の名木(トチノキ)


トチノキ
「校庭の西北にあります。春から秋までは、葉が茂って丸いボールのような形をしており、子どもたちに緑陰を与えています
。」(上村の文化財 第3集より)

上小学校の名木(ムクの木)


ムクの木
「ニレ科の落葉樹の大樹。高さ約20m幹周り4.5m、地面から曲がるため鉄骨支柱で支えている。もと真言宗寺院、宝持院があった所で、開山の快善は、狗留孫神社別当寺の兄弟であり天正年間(1573~72)に永里に来て増幅寺を建て、慶長3年(1598)に瑞山寺宝持院と改称。ムクノキは宝持院時代のものと考えられる。」(あさぎり町ホームぺージより)

 この木の周辺には他にも多くの木が植えられており、夏場などいい木陰となり、子どもたちもこの木の周りでよく遊んでいます。木の下の方の幹には空洞があります。

上小学校の名木(校庭隅のイチョウ)


校庭隅のイチョウ
「校庭の南西の隅、崖の縁にあります。今の校舎の配置になる前は、講堂の裏手にあたっていました。樹高が約20メートルあり、秋の紅葉の頃は黄色に染まった姿が遠くからも美しく見えます」(上村の文化財 第3集より)
 ちょうど今(12月6日撮影)が見ごろで、黄葉がとてもきれいです。

ウエムラテック

 
学校のすぐ近くにバイクの部品を作る工場、「ウエムラテック」があります。大きな機械やロボットでバイクの部品が作られています。

学校の野鳥③(ジョウビタキ)

 「ジョウビタキ」も学校にやってきました。ジョウビタキは、おなかの部分がオレンジ色で羽に白部分があり、すぐに「ジョウビタキ」とわかりやすい鳥です。
 そのうえ、比較的、人間の近くまで寄ってくるので、近くでその姿を見かけることができます。しっぽを上下によく動かすのでわかりやすい鳥です。

学校の野鳥②(コゲラ)

 先日も学校の樹木に野鳥がやってきていることをお知らせしました(上小ギャラリー11月2日)が、今日(11月10日)は、「コゲラ」を見かけました。
 コゲラはキツツキで、キツツキの中では一番小さい鳥です。ふつう鳥は、枝の上に「とまり」ますが、コゲラは幹や枝に「しがみついて」くちばしで木をたたき虫などの餌を見つけています。巣も木の幹にくちばしで穴をあけて作ります。(コンパスを使ったような見事な円形の穴です)
 私もバードウオッチングの経験がありますが、「コゲラ」を見かけると「バードウオッチングに来た甲斐があった」と思える鳥です。それほど珍しい鳥ではないですが、見ていて動きがスズメ等の鳥と違い面白いのでつい見てしまいます。

学校の野鳥(エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ)

   11月となり、朝夕と気温もぐっと低くなってきました。気温が低くなるにつれて、気温の高い季節にはあまり見られなかった野鳥をみかけるようになりました。学校の樹木にも、いろいろな冬の野鳥がやってきますが、昨日は、南側校舎前の桜の木に「エナガ」「シジュウカラ」「ヤマガラ」の3種類の鳥をみかけました。

下永里~榎田地区 蕎麦(そば)の花


 学校の前の道(県道43号線)沿い、下永里地区から榎田地区にかけて「蕎麦(そば)」が植えられています。8月の終わりに、米が収穫された水田のあとに植えてありました。これまでは、一面白い花が咲いていましたが、昨日(10月18日)には、真っ白だった蕎麦の花に、ところどころひし形の黒い実ができていました。

秋時地区 その5


収穫前の水田です。イノシシやシカよけのための電柵がありました。右の写真はこんにゃくです。農協の婦人部の皆さんが自分の家でとれたこんにゃくいもを持ち寄り、こんにゃくを作られるということでした。

秋時地区 その3


山水が豊富で、水をお宅に引いておられました。井戸があるお宅もあり、現在も使われているそうです。以前は、写真のような手押しの井戸ポンプでくみ上げられていたそうですが、今は電動のポンプで水を汲みあげられているということでした。

麓地区 その5


石蔵のある通りを「天神馬場どおり」というそうです。麓城があったころの「麓馬場どおり」と同じく城下町で、「麓馬場どおり」と並行して作られ麓城までまっすぐに伸びています。

麓地区 その4


 立派な石蔵がありました。大正11年(今からおよそ100年前)に作られたそうです。扉もその当時のままで、銅製の扉が残っていました。米などの保管に使われていたそうです。
中学生が使用する「熊本の心」に掲載されている「植林人生・・犬童敬太郎氏」の御生家で、犬童敬太郎氏の名前が記されていました。

麓地区 その3


「麓馬場どおり」という案内板がありました。
この通りは、中世にあった麓城(上村氏の居城)までの道で、道の両側は麓城の「城下町」だったそうです。整然と区画整理がなされており、今でもその当時の石垣や古い樹木が目立ちました。

麓地区 その1


麓地区には、白髪神社があります。3年生は、総合的な学習の時間に見学にいきました。また、お祭りのときには、相撲大会や剣道の大会が催されています。相撲大会には、上小児童も参加しているそうです。

永山地区 その4


永山地区にも灌漑用の水路が流れていました。その溝より土地の高度が高いところでは、永里地区や上永里地区と同様に「立ちあがり」がありました。

永山地区 その2


永山地区の中にお地蔵さんがありました。その横には「康申塔」があり、綱引きの綱が巻き付けられて「わらじ」のような形になっていました。綱引きは「十五夜の綱引き」だそうで、現在は運動会の後に子ども会で行っているそうです。写真中央のものは、去年巻かれた綱で、写真右のものは、今年の運動会(9月25日)の後に綱引きを実施し、巻かれたものです。

永山地区 その1


ビニールハウスでのトマト栽培の準備がされていました。11月ごろには収穫できるようになるそうです。(9月11日)

狩所地区 その4


殿原地区のところで書きましたが、戦時中に神殿原にあった飛行場は、「神殿原秘匿 飛行場」という名前だそうです。狩所には、その施設の一部の建物の「基礎部分」が残ってるということでした。

狩所地区 その2


山上八幡神社の敷地内にとても大きな木がありました。「ベニタブ」という木だそうです。船をつくるときに用いられることもあるそうです。

狩所地区 その1


狩所地区に「日本遺産構成文化財」の山上八幡神社がありました。山上八幡神社の他にも、人吉球磨地方にはいくつか「日本遺産構成文化財」があります。

平和地区 その3


 平和地区では、「平和宣言」というものがなされています。
「幾多の困難を乗り越え、肥沃な農地を擁するに至ったこと」や「新旧の人々、老若男女が一致団結して、よりよき平和郷を築こうと昭和60年に平和宣言を行った。」と碑文にあります。

平和地区 その2


 平和地区の公民館の「資源有価物回収会場」です。平和地区のみならず、上地区の公民館にはほとんど設置してあり、しっかりとリサイクルへの取り組みがなされていますね。

平和地区 その1


 平和地区も戦後まもなく開拓が進められました。大きな開拓の記念碑が建てられていました。広い田畑が広がっています。

石坂地区 その1

 
   石坂地区に「天子神社」があります。残念ながら数年前の台風で倒壊したそうです。しかし、御神体は近所の数軒のお宅で、「1年ごとに持ち回りで保管している」「年に1回は、白髪神社の神主さんに来てもらっている」ということを聞きました。御神体は「鷹」だそうです。

神殿原地区 その5

 上地区には、表面が黒色の農地を見かけることがあります。それを掘ってみると「イモゴ」とよばれる赤っぽい土があるそうです。 
 どちらも火山性の土で、水はけがよいのが特徴で、作物によっては向き不向きがあるそうです。土地改良や土壌改良をして作物を栽培しているところも少なくないということでした。

神殿原地区 その4

 神殿原には、戦時中飛行場があったそうです。
近所の人でその当時小学生の方に聞いてみたところ、双発機(つばさが上下2枚ある飛行機)
があったそうです。飛行機操縦の練習機といわれていました、
 「ゼロ戦」や「紫電改」などの当時の有名な戦闘機は見なかったとおっしゃっていました。
 神殿原飛行場に関する資料によると、「戦闘機」を隠すような施設が作られていたようです。

神殿原地区 その1


神殿原にある農業研究所よこに「アメダス」がありました。気象観測用の施設です。テレビの天気に関するニュース等でもよく聞く名前で、「アメダス」は5年生の理科の教科書にもでてきます。

今井地区 その5


今井地区に「地蔵堂」がありました。豊作祈願をされるそうです。右の写真は、「氏神様」と呼ばれその地域を守ってくださる神様として大事に祀っておられます。

今井地区 その3


昔の農具が保管されていました。左が「たいち車」といい稲と稲の間の草取り用で、右が「まんが」といって牛に引かせて畑や田を耕していたそうです。

西別府地区 その5


「みずき園」です。6年生が、「ハートフル交流会」でお世話になっています。右の写真のように、食品を加工する施設もありました。

西別府地区 その4


「百太郎溝(ひゃくたろうみぞ)」です。幸野溝とともに、上中球磨の中心的なかんがい用水路です。下西別府地区では、この溝が免田地区と上地区のさかいになっているそうです。

西別府地区 その3


 立派な「石蔵」がありました。(左) 持ち主の方に聞いてみると、今から90年ぐらい前の昭和2年に作られたそうで、「人吉球磨石蔵100選」にも選ばれたそうです。今は、倉庫として使用したり、石蔵の中でバーベキューをされたりされているそうです。
 右の写真は、「納屋」です。今はあまり見かけない大きな木で作られていました。昔ながらのつくりの納屋でした。

清水地区 その4


 「春日ぼうふら」を作られていた方が栽培されていた「ふろ豆」という野菜です。実は、とても長く50~60cm位ありました。「三尺豆(さんしゃくまめ」ともよばれ、長いものは約90cmくらいに育つそうです。こんなに長い豆ははじめてみました。
 ここ5年ほど栽培されていなかったそうですが、保管されていたたねを用いたら発芽し、栽培されているそうです。

清水地区 その3


 めずらしい野菜を見つけ、栽培されている方にお聞きしました。かぼちゃのような葉とくきが、納屋全体をおおうように見事に成長していました。 
 「おてもやん」の歌詞にでてくる「春日ぼうふら」だそうです。「春日ぼうふら」とは、かぼちゃの一種ですが、その実は、右の写真のようにヘチマの形のようで、ひょろ長い形をしていました。
 「京野菜」という京都地方の伝統的な野菜は、テレビ等でもよく目にしますが、、「春日ぼうふら」は、「ひご野菜」とよばれる熊本の伝統的な野菜の一つだそうです。

清水地区 その2


 米の収穫が済んでいる水田もありました。(8月10日)
左の写真は、収穫を前にすずめよけのための、鳥の形をした凧のようなものがありました。

清水地区 その1


 清水地区は、戦後入植され、大変な苦労をされて原野の開墾を進められたということでした。はじめの頃は水利が整備されてなく畑地での農作物の栽培をされていたそうです。
 しかし、構造改善事業により区画整理や幸野溝の延長・改修がなされ、現在では右の写真のような広い水田が広がっています。
 左の写真のように公民館にはその開拓の記念碑がありました。

塚脇地区 その5


塚脇公民館の中に、「毘沙門天像」が保管されています。町指定有形文化財だそうです。公民館は、かぎがかかっていて、残念ながら写真にとることができませんでした。
また、公民館の敷地内には立派なイチョウの木ありました。この木も
町指定天然記念物だそうです。

塚脇地区 その4

「お名号さま」
 塚脇地区には、お名号さまと呼ばれる、「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸があります。
 錦町木上の十日市地区と1年交代で保管されているもので、「自分の地区に保管する際には、地区の代表者の方が迎えに行かれる」ということが現在も行われているとのことでした。そのときは、お寺の住職の方が来られ、地区の人も集まりお経をあげられるそうで、「かくれ念仏」に関係があるということでした。
 残念ながら、写真は撮れませんでした。

学校北側のがけ

  
           (学校の北側の斜面)                         (がけの下の わき水)
 学校の北側の斜面は、かなり高い崖(がけ)になっています。どのようにしてできたのかと以前から疑問に思っていました。
 そこで、地質学に詳しい、あさぎり町の中村富人教育長にうかがいました。
 結論は、学校北側の斜面は、「免田川の河岸段丘崖(かがんだんきゅうがい)」ということでした。河岸段丘は、川の流れる水のはたらきでできるもので、全国いたるところで大なり小なり見られます。
 川の流れる水のはたらきによって川底に砂・土・石などがつもります(たい積)。
その川底のたい積物(たいせきぶつ)が長い年月の間に、大地の動きによって隆起(りゅうき)し地表にあらわれます。何千年、何万年かけて川はさらに川底や川の両側をけずります(侵食)。そうすると、かつての川底のたい積物は、川の流れる水によってけずられて崖や平らな部分ができます。崖の上の平らな部分が河岸段丘、斜面の部分が段丘崖ということです。

 白髪岳から大なり小なりの川が免田川、球磨川に向かって流れていますが、学校から白髪岳の方角は、扇状地(せんじょうち)を形成し、その縁(へり)が学校の北側の崖です。扇状地の縁は、湧水(わきみず)が多くありますが、学校北側の崖の下を見に行くと湧水がたくさん出ていました。とてもきれいな水で、夏は冷たく、冬はあたたかく感じる水だそうです。大地の下を通ることによってろ過されたとてもきれいな水なので、以前はその水を飲む方もおられたということでした。

下永里地区 その2


 4月に田植えをされたそうで、8月末には収穫でき、稲刈りのあとは「そば」を作られるそうです。
 右の写真は、「おどし」と呼ばれるもので、赤い部分が音をだして上に上がっていました。「すずめ」を追い払うもので、5分間隔で作動し、近くに民家があるため音は控えめに設定してあるそうです。

下永里地区 その1


 光源寺です。上小の2年生は、「まちたんけん」の際には見学に行き、住職さんからお話を聞きます。
「明治4年(1871年)宗門改めは廃され、信仰の自由が許された真宗のかくれ門徒が立ち上がり、明治15年(1882年)に光源寺開基になったのである。」(上村の文化財 第2集より)とありました。
 人吉球磨地方は、藩の政策により室町時代から明治時代になるまで浄土真宗の信仰が禁止されていました。
 しかし、信仰心の強い人々がひっそりと信仰を続けてきました(かくれ念仏)。明治時代に入り、先述の信仰の自由が許され人々が立ち上がり、つくられたお寺です。敷地内には石塔も多くありました。

榎田地区 その5


榎田地区に「地蔵堂」がありました。「オンカカ、カビサンマ、エイソワカー」という言葉(梵語の地蔵真言だそうです)を3回唱えてお祈りするといいそうです。

榎田地区 その4


 榎田地区で見かけた「イチジク」です。たくさんの実がついていました。私の家でも「イチジク」を植えていますが、他のところで植えてあるのは初めてで写真に撮りました。ここ数年食べるようになったのですが、思っていたよりとてもおいしく感じます。
  右の写真は、きれいに手入れされていたクヌギの林の中の水路です。幅も広いものでしたので、「幸野溝かな?」と思い、近所の方に聞いてみたところ、「幸野溝ではない」ということがわかりました。

榎田地区 その2


 これまであまり目にしなかった竹林がありました。(左の写真)よく手入れされていました。右の写真は、「ムクゲ」です。はじめ見たとき「寒暖の差が大きい球磨地方でハイビスカス?」と思いましたが、調べてみたらムクゲでした。

榎田地区 その1


 榎田地区に阿弥陀堂がありました。その中には阿弥陀如来像がありました。地区の人びとは、「あみださま」とよんでおられるそうで、旧暦6月に、祀りをされるそうです。右の写真は、同じ敷地内にある「五輪塔群」と呼ばれるものだそうです。