日本一の大校門!(紙芝居になっています)
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日本一の大校門!

写真:15枚 更新:2018/12/27 作成:2017/12/10 学校サイト管理者
左の画像をクリックし、スライドショーでご覧下さい。
日本一の校門 今日は、今津小学校にどっかりと立っている校門について、どのようにして出来たか、お話をします。 校門は今から82年前に建てられました。作られたときは校門としては日本一大きかったと言われています。この大きな校門がどうやって出来て、運ばれてきたか想像しながら聞いて下さい。
石の規格 石は約150年前、明治のはじめごろ四国から来た石工職人によって石垣に使うケンチ石として利用されるようになりました。 ケンチ石の大きさは三つあり、イン二、インゴ、インパチと呼ばれ、取り引されています。
一寸発破 あまりにも大きな石が出てきたので、発破で一番大きい「一寸の発破」を打つことになりました。直径約4cm、深さ10mの発破の穴を最初は1人から2人で、だんだん深くなると「やぐら」を組んで5~6人で、7日から10日間ぐらいかかって深さ10mの穴を掘りました。 その穴に火薬をつめ込んで発破をかけるとパンパンという大きな音と共に、大きな石がうまく「二つ」に割れました。
石山 採石場は主に、今泉、合津の西側や教良木地区の一部で行われていました。特に知十や後山など倉江川の両岸で採石が盛んに行われ「合津石」として有名になりました。
正門 今津小学校の正門は、今から82年前の昭和10年(1935年)7月1日に建てられました。門の高さは2m54cmで、そのうち土台の高さが24cmあります。巾は1m35cmです。
親方 合津石は昔から有名で長崎のオランダ坂や長崎市電の路面敷石。有明町島子の池田屋、三木屋新宅の石垣塀に使われており、とても素晴らしいものです。 「みんな、こん仕事に誇りをもってきばってくっど」といって渋田さんは、石工職人に気合いを入れました。
渋田謙太郞さん 大きな校門を寄付した人は渋田権太郎さんと言って佐賀県の人で知十の御手水の石山の権利を持っておられたそうです。
昭和60年頃から松島町をはじめ、天草や熊本県内の公園やバス停などに「張り石」として使われ、熊本県立美術館の外壁に使われています。 平成10年には天草富岡城の石垣の復元にも合津石が使われています。 えらい太か石が出てきたごたる。みんなががんばってくるるけんゴソウはぎ(石の上にある木や土をはねのけること)もさばけたばい。
良か石 そこで渋田さんは、良か石がとれたので小学校の校門に寄付したいと言いました。それを聞いた石工職人は「ばってん親方、こん原石ば動かすとだけんやおいかんばい、おまけに学校まで4.5kmもあり道は悪かっだんんどん、どぎゃんして運ぶとかなとささやいていました。
スラ 「スラ」に大きな校門をのせ、採石場には孟宗竹(もうそうだけ)を割って敷き並べ「スラ」を少しずつすべらせて道路まで運び出されました。
餅つくウス 大きな石はとれたばってん、運ぶとも大変ばってん、そん前に、校門として誰が彫刻できるか心配していたところすぐ近くの西目の織尾採石場に黒川福太郎さん(天草市下浦町の人)が彫刻技術を生かして餅をつく「石ウス」や粉を引く「引きウス」を造って八代方面に販売されていることを渋田さんが聞きつけました。
7支部青年団 石を運ぶ7支部青年団の奉仕作業を移した写真が大正8年生まれ(1919年)の男性16才園田留吉さん、大正3年生まれの女性21才松江ノブ(旧姓奥田)さんたちが写っています。学校では、先生が引率して石を運ぶ途中の今泉まで見に行ったとのことです。先生の奥さんたちは学校でにぎりめしの炊き出しの奉仕をされたそうです。
黒川さん さっそく渋田さんは、黒川さんに校門の彫刻をたのみました。黒川さんは彫刻技術を生かして、素晴らしい校門を造りました。「こりゃー見事ばい」こん太さの校門は日本中どこにもなかろうたい。さて校門は出来たが誰がどうやって運ぶか問題であったが、今泉、合津の青年団と消防団が支部ごと手伝ってくれることになりました。
石を運ぶ 木で一番かたい「サブリュウの木」で校門をのせる台を作って、その上に校門をのせ、数本の丸太を下に次々と道路に並べ、少しずつコロコロころがして運んだのです。 渋田さんの元気な旗振りと「そりゃいけーヨイサ、ヨイサ」のかけ声がひびき「田ん中にゃ、つこかすなぞ」「今のうちにゴロば敷け」村中が心を一つにして、この作業を見守ったということです。曲がりくねった登り坂がもっとも大変だったようで、油断すると逆にうしろに下がる危険もあって悪戦苦闘して上り坂を越えたそうです。下り坂も丸太の並べかた次第で転びすぎて平坦な道を運ぶようにはいかなったそうです。